イルカ先生の口寄せ獣（2）
バシンッ！火影室に大きな音が響き、綱手の怒りの拳をまともにくらった机がふたつに割れた。
「カカシ、バカなことをお言いでないよ！ 私は絶対に赦さないからね」
綱手の怒声にもカカシは眉一本動かさず、怜悧な声を室内に響かせる。
「ご許可がいただけなくても、俺は、暁に捉えられたテンゾウの救出に向かいます」
カカシの言葉に綱手はギリギリと唇を噛みしめた。
赤の紅を刷いていなければ、その唇が血色に染まるのが見えただろう。
「お前の気持ちは分かる。お前がテンゾウを可愛がっていることも知っている。しかし、大局を見ろ！ 今、木の葉の最高戦力であるお前がナルトを守らないでどうするんだい！ 暁はナルトを狙っているんだよっ！？」
「綱手様、俺はナルトを信じています。ナルトは忍びとしても、人間としても、もう充分に強い。今本当に助けが必要なのは、ナルトではなく、テンゾウです」
カカシは揺るがない。
そのことを綱手は誰よりも知っていた。
綱手とて、どんな目に合っているかわからないテンゾウを助けてやりたいと思っているのだ。
火影の立場として下さなければいけない判断と、自分の真実の心はいつだって乖離している。
思考し、逡巡する。
一秒が数分にも思われるような長い沈黙を経て、綱手が口を開いた。
「分かった。そこまで言うなら行かせてやろう」
「ありがとうございます。綱手様！」
「ただし、条件がある」
綱手はここで声を張り上げた。
もう、誰も見捨てたくない、死なせたくない。
その思いから綱手は手中から紙を生みだし、式鳥を作った。
作り手と同様に美しい鳥は、アカデミーに向けて一直線に飛び去っていく。
「うみのイルカを連れて行け」
カカシの眼が大きく見開かれた。
「お言葉ですが綱手様。うみの中忍はヒルゼン様、綱手様に仕え、里の内情を詳しく知る人物です。ナルトにとってのキーパーソンでもある。里内にて厳重に守るべき対象と考えます」
声に隠しきれない焦りが滲んでいるのを感じ取り、綱手はニヤリと笑う。
「この期に及んで、嘘をつくんじゃないよ。
お前は周りにも本人にも隠しているつもりだろうが、私の眼は誤魔化せないよ。イルカに惚れているんだろう？
私もね、お前に死なれちゃ困るんだよ。イルカを連れていくなら、お前も無茶ができないからね」
「だめです、綱手様、どうか独りで行かせてください。必ず生きてテンゾウと戻ります。どうか、うみの中忍は里内に留めてください！」
なおも食い下がるカカシを綱手が片手で制したそのとき、カカシの隣の空間が歪み、イルカが現れた。
「ただいま参りました。綱手様」
綱手に敬礼をするイルカに、人好きのするいつもの笑顔も、温かな気配もどこにも見当たらない。
代わりに研ぎ澄まされたチャクラが焔のように全身を覆っていた。
歴戦の暗部でもここまでの気迫を出せる者は、そうはいないだろう。
――強い、とは思っていたけど、まさかこれほどとは
カカシは内心舌を巻く。
「イルカ、式で命じたとうりだ。カカシと共にテンゾウを救出してこい」
「はい」
「ダメです綱手様ッ、うみの中忍には里内待機を！」
「ならん。これは火影命令だ。聞けぬならテンゾウをあきらめろ」
綱手の言葉に激しく乱れるカカシの心を、イルカの鋭い声が刺し貫いた。
「はたけ上忍、気遣いは無用です。俺は任務を遂行します」
簡潔で強い言葉にイルカの覚悟を感じ取ったカカシは、己の覚悟も決める。
それを察した綱手が間髪入れずに叫んだ。
「はたけカカシ、うみのイルカ。テンゾウを救出し、必ず皆で生きて戻れ！ 散っ！」
*
カカシとイルカは、ときに荒野を駆け、ときに瞬身で距離を稼ぎ、確実にテンゾウへの距離を詰めていった。
テンゾウは暁の中枢に捉えられている。
その情報が真実ならば、あと数刻でテンゾウに辿りつく。
逸る心のままに、先を急ぐイルカをカカシが制した。
「うみの中忍。チャクラと体力の回復のため、ここで休憩をとります」
思えば不眠不休でもう何日も移動しているのだ。
カカシの言うことは至極もっともだった。
張り詰めた心をほんの少し緩め、イルカが足を止める。
空を見上げると、太陽が中天にあった。
「これより14時間の休息をとります。その後、俺はテンゾウの救出に向かいます。うみの中忍は退路の確保の為、ここで待機するように」
イルカは驚いてカカシを見た。
「嫌ですっ、俺も連れて行ってください！ はたけ上忍の足手まどいにならない自信があります」
「うみの中忍、これは命令です。貴方はここで待機してください」
得体の知れない力を持つ暁に捉われたテンゾウに、意識が残っているか定かではない。
最悪の場合、自我を奪われたテンゾウと対峙する可能性もある。
もしそうなったら、カカシはテンゾウと本気で戦えるのか？
答えは否だ。
カカシは己の命が尽きるまで、テンゾウを諦められない。
それを避けるために、綱手はイルカを付けた。テンゾウからカカシを守り、里に返すために。
綱手の思惑を察しているイルカは必死だった。
「あなた一人を危険な目に合わせたくはないのです！ 俺も行きます」
「くどい！ ツーマンセルの隊長は誰だ？ これ以上の口答えは命令違反とみなし、里へ強制送還する」
「……ッ！」
ここまで言われてしまえば、イルカに為す術はない。
瞳に苛烈な怒りを滾らせながらも、口を噤むしかなかった。
殺伐とした空気が流れる中で、カカシは守護結界を張り、イルカは簡易テントを用意する。
体力回復のために許された時間は14時間。
少しも無駄には出来ない。
カカシとイルカは共に複雑な思いを抱えながらも、テントの中に並んで身体を横たえた。
しばらくして、イルカがカカシに話しかけた。
声は思いのほか柔らかい。
「カカシさん。貴方にとって、テンゾウさんはどういう人ですか？」
この問いに誠実に答えたいと思ったカカシは慎重に言葉を選び、つかえながら話しはじめる。
「テンゾウと俺は……似ているんです。家族を奪われ、里の道具にされ、身体を改造され、戦うことだけを求められた半生でした。そんななか、俺は自分の心を殺した。そうしなければ生きていけなかった。けれど、俺はテンゾウに出会って。テンゾウは俺に出会って、人としての感情を取り戻そうと思うことができたんです。テンゾウと俺は、互いに支え合って生き抜いてきた、同じ傷を持つ唯一無二の同志です」
「では、うみのイルカは？」
思ってもみなかった問いに、カカシが短く息を飲む。
しかしすぐに平静を装い、偽りの言葉を唇に乗せた。
「綱手様の大事な懐刀、ナルトの大好きな先生。俺の気の合う飲み友達ってところかな？」
「流石カカシさんだ。嘘がお上手ですね。でもね、俺は貴方の本当の気持ちを知っているんです」
イルカはベストのポケットから丁寧にたたまれた紙を取り出し、カカシに手渡した。
それは、綱手がイルカに宛てて送った式であった。
広げた紙に視線を落としたカカシの貌から血の気がひいていく。
――カカシは命掛けでテンゾウを助けにいくつもりだ。カカシが生きて帰れるように、お前がサポートについて欲しい。
はたけカカシはうみのイルカを愛している。お前が側にいればなんとしても生きて守ろうとするだろう――
まるで作り物めいた白磁の美貌から、低い唸り声が漏れた。
イルカへの恋慕は絶対に知られてはいけなかったのに。
しかも、このような最悪なタイミングで知られてしまうことになるとは。
どう言葉を継げばよいのか分からなくて、カカシは黙りこんでしまった。
「カカシさん、俺を守ろうとしてくれて、ありがとうございます。俺を愛してくれて、ありがとうございます。だけど、俺もずっとテンゾウさんを助けたいと思っていました。俺は中忍ですが、幼い頃からヒルゼン様に忍術を、アスマ上忍に体術を仕込まれています。トラップの設置、解除にも自信があります。どうか、ご一緒させてください」
「……ダメです。これは隊長命令です」
そう言ったカカシの声に、もはや生気は宿っていない。
真実を知られた以上、この言葉でイルカを説得できないことをカカシは知っている。
本心を語らなければきっとイルカは納得しないだろう。
「そのような私情が混じった命令は、聞けません」
「だったら、本当のことを言います。せんせ……お願いだから、ここに残って。俺が貴方を愛したばかりに、危険な任務に貴方を巻き込んで申し訳ないと思っています。貴方がテンゾウを助けたいという気持ちは本当にありがたいし、貴方の実力を侮っているわけでは決してないのです。むしろあなたの能力には感嘆しています。だけど、ここから先はあまりにも危険です。最初で最後の俺のわがままをどうか聞いてください。お願い、先生。ここから先は俺独りで行かせて」
カカシの本心を聞き、イルカは大輪の花が綻ぶように、華やかに笑った。
「貴方にそこまで言わせる自分を、誇らしく思います。あのね、カカシさん、今から貴方が俺を連れていきたくなることを、してもいいですか？」
「え？ はい。って、なに？」
イルカは片肘をついて起こした上体をカカシへと近づける。
その距離、数センチにまで近づいた二人の皮膚は、互いの熱を感じはじめた。
それだけじゃない。
土埃に紛れた汗の臭いを、高鳴る鼓動を、真剣な瞳が潤む様子を、研ぎ澄まされた五感が感じとってゆく。
緊張に震えるイルカの指が、カカシの口布に触れた。
ゆっくりをそれを引きおろし、露わになったカカシの美しい唇に、イルカは自らの唇を添わせた。
「愛しています」
誓いのような尊い接吻を、もう一度。
「う、そ？」
カカシの言葉に、慈しみと困惑を混ぜてイルカが微笑む。
「貴方をずっと愛していました。この気持ちが嘘なはずがありません。貴方が同じ気持ちだと知ってどれだけ嬉しかったか。俺はもう貴方のものです。だからカカシさん。どうか俺を遠ざけないでください。危険であれば、なおのことお傍にいさせてください。生きるときも、果てるときも貴方と共に」
イルカの言葉は、傷だらけのカカシの心に温かな光をともし、殺し続けたイルカへの恋慕を救った。
叶う事すら望まなかったイルカへの想いが報われた。
その喜びが、じわじわとカカシの身体を侵食し、ついには涙の奔流となる。
「イ……ルカ……せん……あ……りが……す……き」
嗚咽混じりの声では愛を告げることなどできず、それでもその姿が、言葉以上に強烈にカカシの思いを伝えてくる。
男泣きに泣くカカシを抱きしめるイルカもまた、感極まり泣いているのだ。
「カカシさん、好きです。俺も……好き、です。だから、一緒に」
「は……い。一緒に」
その夜、二人は固く抱きあい、この世に怖れるものなど何もないかのように、眠った。
*
現実は、ひどく残酷だ。
考えうる限りの不幸を、軽く超えてくる。
切実な祈りも、必死の努力も、心からの願いも、何もかも、あざ笑って。
テンゾウはもはや人ですらなかった。
得体のしれない巨大なナニカの中心に埋め込まれた、蠢く木遁の主。
外道魔像と呼ばれるモノと同化したテンゾウが地中から這い出てくる。
「テンゾウっ！！」
それでも。
カカシの悲痛な叫びはテンゾウに届く。
テンゾウは感情の籠らぬその眼を開き、カカシを見つめる。
「テンゾウッ！！ テンゾウッ！！」
僅かな希望に縋ったカカシがテンゾウに向け走りだし、両手を伸ばす。
その腕を、その腹を、その足を、木遁が貫いた。
神の領域を穢した生き物の力は、この世の理に従って生きる人間に防げるものではなかったのだ。
「ぅうわぁああああああ！！！！ カカシさんっ！！！ カカシさんカカシさんカカシさんっ！！」
半狂乱になったイルカがカカシに駆け寄る。
「イル……にげて……生き……て」
カカシの最期の願いが。
「いやだっ！！ いやだいやだ！！ カカシさん！」
カカシを貫く木に、イルカは挑んだ。
「返せよ！！ 俺のカカシさんだ！ 返せっ」
あらゆる忍具を使い、命を削ってかき集めたチャクラを放ち、木をへし折り、血みどろになりながら、イルカはカカシをその手に取り戻す。
「カカシさ……んっ」
「イ……ル」
テンゾウから、千本の木遁が放たれた。
――カカシさん、生きるときも 果てるときも、あなたと共に……
幸せな人生だった。
だって、最期に愛する人を抱きしめ、共に逝けるのだから。
ズブリ
鋭い枝が、イルカの掌を打ち抜いて。
「あぐっ！」
滴る鮮血をイルカは見た。
でも、まだだ。
まだすることがある。＜たぬ＞との約束を果たさなきゃ。
＜たぬ＞を自由にしてやらなきゃ。
イルカは血煙のたつ大地に、魂寄せの陣を記した。
この陣で、口寄せ獣の魂のみを強制的に呼び寄せる。
魂の前で主が死ねば、魂は本体に戻り、口寄せ獣は自由の身となる。
これが契約の、解除だ。
真紅の陣がグルグルとまわりだし、中心の空間が歪み、小さな塊が現れた。
「たぬ！」
イルカは大切な友達の名を呼ぶ。
「早く出てこい！ たぬ！！」
できることなら、意識を手放す前にふさふさの尻尾をもう一度見たい。
くりくりの優しかった目で、愛する人を手に入れて満たされて死んでゆく自分を看取って欲しかった。
最初は小さかった塊が、どんどん大きくなって。
「たぬ……？」
いつしか忍狸の大きさを越えてしまったその影は。
あぁ、それは……。
漆黒の忍服に身を包み、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑う、その人は。
バシィイッツ！！！
辺りを強烈な光が照らし、張られた守護結界が、無数の木遁を退ける。
「久しいのぅ、イルカよ」
懐かしい、その声。
しわがれた優しい声。柔らかな、微笑み。
大好きで、大好きでたまらない人。
「あぁっ、ヒルゼン様っ！ どうしてっ！？」
「うむ」
驚きの次に現れた感情は、どうしようもない思慕の念だった。
「ヒルゼン様ッ、ヒルゼンさまっ、じっちゃ……んっ！！」
カカシを抱きしめながら、縋る瞳で己を見上げるイルカに、ヒルゼンは頬を優しく緩ませた。
「イルカよ、お前が伴侶に選んだのはカカシじゃったか」
「……はいっ」
「善い男を、選んだの」
「はい。で、でもっ、もうカカシさんは……」
カカシの命は風前の灯で。
彼を失ってはもう生きていくことなど出来ない。
「案ずるな、お前とカカシは儂が助けてやる」
斑の浮かぶ大きな手を二人にかざすと、みるみるうちにカカシとイルカの傷がふさがり始めた。カカシの顔に生気が戻る。
呆然とするイルカに、ヒルゼンは優しく微笑みかけた。
「肉体を失のうてから、出来ることが増えよったわ」
逞しく成長した愛し子を、心を痛めて見守っていた白い牙の息子を、ヒルゼンは満足そうに見つめている。
しかし、いつまでも、こうしているわけにはいかない。
目の前に、脅威があるのだ。
「さて、儂はテンゾウをとめるかの。イルカよ、カカシを連れて一旦里に戻れ。今の状態のテンゾウを救い出すこと、叶わぬ。しかし、いずれ必ずテンゾウは木の葉に戻る。儂はそう信じておるよ」
苛烈な木遁を防ぐ結界の、ところどころに綻びが出はじめていた。
ヒルゼンは再度印を結びながら、外道魔像に対峙する。
「いけぃ！ イルカ！！」
「はいっ」
強い声に背中を押され、イルカはカカシを抱いたまま力一杯駆け出した。
背後ですざまじい量のチャクラが練り上がっていくのを感じながら。
ヒルゼン渾身の術が、外道魔像へと襲い掛かる。
苛烈な竜巻
割れる大地
うねる水
空を裂く雷鳴
地獄の業火