うみの独身寮 <6>
ある日、イルカが夕食の買い出しから戻るとテンゾウに呼び止められた。「あの、イルカさん。入居者を代表して少しお話したいことがあります」
「はぁ、なんでしょう」
「綱手様と先輩を除く皆で話し合ったのですが、ボクたちの寮費を4倍にしてくれませんか」
「えっ?」
イルカは面食らった。
入居者のほうから寮費を上げて欲しいなどといった話は前代未聞である。
しかも4倍。
「えっと、どうして?」
「今の寮費では安すぎます。毎月赤字でしょう? ボクたちはここの生活がとても気に入っています。潰れてもらっては困るんです。」
元々、先の大戦で辛酸をなめつくした彼らに穏やかな生活を営んで欲しくてはじめた独身寮だ。儲けるつもりはない。
寮費の値上げなど考えたことはなかった。
だけどテンゾウの言うことは最もで、現状、今までコツコツ積み立ててきた貯金を赤字の補填にあてている有様だ。
このままの状態が続けば、あと数年で破綻するだろう。
そうなれば入居者に迷惑がかかるし、自身の生活も危うくなる。
気づかぬふりをしていた見立ての甘さをテンゾウに突きつけられた形だ。
4倍とは言わないまでも値上げはすべきだろう。
だけど。
イルカの心には誰にも言えない大きな迷いがあった。
顔が曇る。
「あぁっ!? イルカさん、キツイ物言いをしてしまってごめんなさい。あのっ、責めるつもりは全くなくてですね。ボクを含めてみなさんイルカさんにはとても感謝しているんです」
「大丈夫ですよ。テンゾウさん。あなたの言葉に傷ついたわけではありません。むしろ有難い提案だと思っています。」
イルカはテンゾウを安心させるために無理やりに笑顔を作った。
イルカの気持ちを正しく察したテンゾウも、意識して明るい声を出す。
「それからもうひとつお願いがあります。イルカさんはアカデミーの仕事に加えて、ボクたちの世話をしてくれる。体力的にもかなり無理をしているでしょう? だから家事は当番制にしてください。イルカさんのご厚意にいつまでも甘えるのは心苦しいし、イルカ先生がボクたちのことを大切に扱ってくれるように、ボクたちもイルカさんを大切にしたいんです」
イルカはテンゾウたちがそんなふうに思ってくれていることが嬉しかった。
「ありがとうございます。色々考えて、改めて返事をしますね」
律儀に深々と礼をして、イルカは台所に向かう。
すると、
「覚悟せぃ。その目を深く抉りとってやるぞ……フフフ」
恐ろしいセリフが聞こえてきてイルカの体に緊張が走る。
急いで台所に入ってみれば、イビキが鬼の形相で包丁片手にジャガイモと対峙していた。
「あ。“目”じゃなくて“芽”か。よかった」
胸を撫でおろしたイルカを見つけたゲンマが陽気に話しかけてくる。
「よ〜ぅ、イルカ! 米、8合炊いたがよかったか?」
「あ、はい。いつもは10合ですが、足りると思います」
「そうか。ま、足りなきゃ蕎麦でも茹でるか」
エビスがかき混ぜる大鍋からはかぐわしい味噌の香りが漂ってくる。
「え、っと……」
現状に戸惑い、言葉を探すイルカの両腕が、ふっと軽くなる。
視線を下へと移すと、車椅子のガイがイルカの買い物袋を手にしていた。
「買い出しご苦労さん! あとはオレに任せろ!!」
ガイの素敵なウインクにイルカの頑なだった心が、ふわりと緩んだ。
――あとは俺がやりますから、みなさんは休んでいてください。――
イルカは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
台所に立つ皆はどこかしら楽しそうだ。
一から十まで世話をやくことが彼らの幸せに繋がるわけではないのかもしれない。
それに。
ポン、と肩に温かな手が置かれた。
この気配はテンゾウのものだ。
「イルカさん、ここはボクたちにまかせて休んでいてください。」
――俺も手伝います。――
この言葉もイルカは寸でのところで飲み込んだ。
昔からイルカは人に親切にするばかりで人からの親切を受け取ることが苦手だった。
どこかしら自分に完璧であることを強いていたのかもしれない。
自分の中にある弱さや淋しさを認めたくなかったのかもしれない。
ひょっとしたら誰かに与えてばかりいるのは、強さではなく弱さだったのかもしれない。
この一言が自分を変えるきっかけになるかもしれない。
そんな思いで、イルカは言葉を継いだ。
「みなさん、ありがとうございます。よろしくお願いします。」
その夜。
イルカは布団の中でいつまでも寝付けなかった。
日中に起きた様々なことがイルカにとっては大きな意味を持っていて、それについて考えを巡らせていた。
みんなが作ってくれた食事はとても美味しかった。
味噌汁はとんでもなく辛くて、びっくりしたエビスが水遁の術で皆の椀に水を飛ばしたがタイミング悪く椀を持ち上げた綱手の服を濡らしてしまい大騒ぎになったし、イビキ渾身の肉じゃがは剥き残しの皮が目だつ野趣溢れるものだった。
いつにもまして滅茶苦茶な食事風景だったけれど、そこにあったのは混じりっけのない純粋な幸せだった。
「ボクたちはイルカさんに世話をやいて欲しいんじゃないんです。一緒にこの暮らしを楽しみたいんですよ」
「そうそう。ほっておいたら全部あなたがやっちゃう」
「あぁ、そういえば入居してからずっと、あなたがたは俺を手伝おうとしてくれてましたね」
「だけどイルカは自分でやります、自分がやりますから! って独りで頑張っちゃうの」
「イルカのその気持ちは本当にありがたいけど、手伝いたいっていうこっちの気持ちを受け取ってくれた今日が一番嬉しい」
ニコニコと頷き合う皆の優しい顔は心の奥深くに刻まれて、きっと一生忘れない。
小さな一歩を踏み出した己の大きな勇気も、きっと一生忘れない。
こうやって小さなわだかまりを一つ一つ手放して、楽になっていこうと思う。
小さな、わだかまり。
イルカはため息をついた。
己の中に小さなわだかまりは沢山あるけれど、それを全て搔き集めて倍にしても遥かに及ばない大きなわだかまりがある。
そのことについて考えるのを避けてきたけれど、それは逃げだ。
いつまでも問題を先送りにするわけにはいかない。
「今の寮費では安すぎます。毎月赤字でしょう? ボクたちはここの生活がとても気に入っています。潰れてもらっては困るんです」
昼間のテンゾウの言葉が胸に突き刺さっている。
そうだ。
これは俺だけの問題じゃない。
ここに入居してくれている皆にも深くかかわる問題なんだ。
もう逃げてはいけない。認めなければいけない。向き合って、答えを出さなければいけない。
衝立ひとつを隔てた隣のベッドから安らかな寝息が聞こえてくる。
ナルト、サクラ、サスケが中忍試験に挑んだときからずっと毎日のように「好きです」と言ってくれる人。
中年の男の体を担保に巨額の融資をしてくれる人。
「俺はカカシさんが好きだ」
眠るカカシに聞かれないように、小さな小さな声で呟いてみると涙が溢れた。
認めてしまえば、自明のことで。
ずっと前から胸の奥底では激しい恋心が渦巻いていた。
いつから惹かれるようになったのだろう。
カカシは一見強引に見えるけれど、イルカの気持ちを粗末に扱ったことは一度もない。
その優しさにいつのまにか絆されたのかもしれない。
いや、カカシは忍としても人としても師としても魅力的な男だ。
たとえ好意を寄せられていなくても、惚れていただろう。
「好き」だと返せなかったのは。
カカシの気持ちを信じることが出来ないから。
「イルカ先生好きです」
「今宵あなたのベッドにお邪魔します」
「抱かせてください。好きです」
「あなただけを愛しています」
カカシから繰り出される口説き文句は、いつもどこか芝居じみていて滑稽だ。
セクハラのように体を触られることはあっても、押さえきれぬ恋心故に抱きしめられたことはない。
唇を奪われたことも、一度もない。
この十数年、一度たりとも、だ。
それにカカシはイルカを好きだといいながらも幾人もの女と関係をもっていた。問い詰めても、淋し気に微笑むばかりで否定も肯定もしない。
だけど、女と里内を歩き、夜には二人連れだって宿に姿を消す様子を見た人が何人もいる。
目立つ人だから、うわさが独り歩きしてるのだろうと思い込もうとしていた。
幸せそうに笑う女の肩を抱き、頬に唇を寄せるカカシを見るまでは。
「カカシさんっ!」
咄嗟の叫びにカカシさんは振り向いて、俺を見た。
そして哀し気に眉を寄せたかと思うと、あろうことか女と共に宿の暖簾をくぐったのだ。
あのときの痛みを、イルカは無かったことにした。
そうしなければ、とても生きてはいけなかった。
それほどまでにカカシを愛していたということだ。
イルカは今、それを認めた。
カカシの「好き」は二人の盤石の友情の上になりたつ冗談、あるいはゲームのようなものなのだろう。
本気の恋ならば、力ずくで奪い関係を前に進めるか、諦めて一切の付き合いを断つか。
そうでなければ、とても己を保てないだろう。
少なくとも、他の相手と関係を結ぶことはない。
『そうか、そうだったのか。そうだよ。カカシさんが俺に本気になるわけないじゃないか』
イルカは急に自分が惨めに思えた。
カカシに融資をお願いしたときに、冗談を装い一夜の伽を申し出た。
喜ぶカカシの姿に自分の中の何かが満たされた。
あのときはそれが何だか分からなかったけれど、
「この人は本当に俺のことが好きなのかもしれない」
という希望を見たのだと思う。
寮の経営に失敗して返済が滞れば、カカシは一か月イルカを抱くと言った。
抱いて抱いてカカシから離れらない身体に仕立てると言ってくれた。
嬉しかった。
あのときカカシの纏う色気に体が反応してしまった。
あさましくもペニスは勃ちあがり、快楽への期待に全身の肌が粟だった。
その場をキツイ言葉で必死に誤魔化したものの、抱かれたい という気持ちは以来ずっとイルカの中にある。
日を追うごとに切羽詰まった欲求となってイルカを蝕んでいくから、必死で考えないようにしていた。
積み重なる赤字問題に何の対処もしなかったのも、結局はカカシとの関係を望んでいたからだ。
「好きだから抱いて欲しい」と素直に言える強さはないから、カカシに抱かれる理由が欲しかった。
全て認めてしまえば、痛みは増すが、迷いは消える。
『長く苦しんだ片恋の対価として、一夜の情けをカカシさんに乞おう。
そしてもしも本当に一ヵ月も側に置いてもらえるのだとしたら、一日一日を大切に過ごそう。
俺にとっての蜜月が終わったら、気持ちを綺麗に封印して日常に戻ろう。
そしてずっと心の奥底でカカシさんを愛して生きていこう。
あ、カカシさんへの借金はちゃんと返さなきゃな。
あの人は嫌がるかもしれないけど、そこはちゃんとしないとな。
それから、独身寮は赤字が出ない程度に家賃を上げさせてもらって、ここの暮らしを守っていこう。うん。それがいい』
イルカは心を決めて、深く息を吸った。
「カカシさん?」
呼びかけた声は緊張のためか上ずっていた。
「なぁに、イルカせんせい」
衝立越しにカカシののんびりとした声が聞こえてきた。
共に暮らし始めて幾度となく聞いた起き抜けの声だ。
「あの。俺を抱いてくれませんか?」
言い終えた瞬間、ものすごい勢いで衝立が吹っ飛んでいった。
視界の先には、イルカが見たことのないカカシがいる。
血走った眼の手負いの獣のように切羽詰まったカカシ。
いつもの穏やかさや、厳しい戦闘の最中でさえ失われなかった余裕が今のカカシには一切なかった。
素早い身のこなしで、カカシがイルカに覆いかぶさる。
片手でイルカの顎を掴み、開いた唇に自らの舌をねじ込んだ。
荒々しい接吻は何故か甘美でイルカはうっとりと目を閉じる。長年欲しかったものがやっとあたえられる安堵に、イルカは喜びの涙を流した。
全身で感じる愛しい男の温みと重み。
これを幸せといわずとして、何を幸せというだろうか。
カカシの体温は想像よりも高かった。
その熱にイルカは酔いしれる。中でもひときわ熱を感じる箇所がある。
そこがカカシの何処かを察し、イルカの頬に朱が走った。
このまま事がすすめば、この熱を身の裡に迎えることになる。
もしも、もしもカカシが己の身の裡で果ててくれるなら、なんと光栄なことだろう。
己の身体はカカシを満足させるに足るだろうか。
生じた微かな不安は、いっきにイルカを現実に引き戻した。
「まってください、カカシさん!」
男同士の性交には受け入れる側に丹念な準備が必要で、準備を怠れば悲惨な結果が待っている。
男同士の経験はないが知識としては良く知っている。
初めての夜を、最後になるかもしれない夜を、カカシにとって嫌な思い出にしたくない。
「シャワーを浴びさせてください。すぐに戻りますから」
「あ、そっか」
カカシはあっさりとイルカから離れた。
「イルカ先生、がっついてごめんね」
「いえ、俺のほうから誘ったのに、すみません」
****
「あ〜あ、何やってんの、俺」
イルカの去った部屋で、収まらぬ熱を持て余すカカシはベッドの上に胡坐をかき天井を眺めた。
「せんせ、泣いてた。泣かせたの、俺だよね。」
ここ数か月、赤字が積み重なっていたことは知っている。
イルカは借金のために仕方なく体を差し出したのだろう。
ずっと欲しいと思っていた相手からの誘いに、欲望のまま襲ってしまったのは申し訳なかった。
それでも泣くほど嫌だったのかと思うと酷く心が痛む。
「ひょっとしたら、最近好かれてるかもって思ってたけど。気のせいだったか」
惚れて惚れて惚れぬいて、何年も口説き続けた。
カカシ自身がイルカと対等でありたいと望んでも、二人の立場がそれを許さない。
絶対的に優位に立つカカシが本気で求愛すれば、イルカは断れないだろう。
断ったとしても周囲がイルカを糾弾する。
だからイルカと周囲が冗談として躱せるラインを慎重に探り、想いを伝えてきた。
選ぶ言葉は陳腐なものだったかもしれない。
けれども、込めた気持ちは真実で。
想いの全てではないにしろ、一部は伝わっていると思っていた。
独身寮の融資を打診されたときは、頼ってくれたことが嬉しかった。
対価として、一夜の交わりを提案されたときは、いじっぱりなイルカの愛情表現かも、なんて思って浮かれて、ついつい一か月の夜伽を希望してしまった。
「でも、そーいえばあのときのせんせ、鳥肌立てながら拒絶してたね。それくらい気持ち悪かったんだねぇ。ほんと色々悪いことしちゃったな。
どれだけ俺が愛しても、愛されていないどころか嫌がられているんじゃ、どうしようもないねぇ。
これ以上、イルカ先生を苦しめちゃダメだよね。ケジメつけるときがきちゃったね」
はぁ〜〜〜。
カカシの深い深いため息は、長く患った恋への終止符だった。
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次回予告
すれ違いからの破局フラグをへし折るべく、恋のキューピットテンゾウが
大活躍しまーす。