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   目覚め  〜斑の空〜

いつまでも眠りの世界にいたい。
けれど、いつかは目覚めなければいけない。


眩しさを感じ瞼をあけると、閉められた鎧戸の隙間から射し込む光の仕業だった。
一晩中、己の体温を溜め込んだ温かい布団から抜け出すのは勇気がいったが、出てみれば身構えたほどの寒さはなく、驚きと共に冬の終わりが近いことを知る。

鎧戸を開け庭に面して設えた縁側に出てみれば、流石に冷えた空気が肌をさす。寝乱れた着物の合わせをしっかりと整え直し、夜露に濡れた縁側を縁まで歩いた。

火影としての仕事が待っている。
出勤の準備をしなければならない。
ならないのだが。


空を見上げる。


鼠色をした綿飴のような雲が、空にべっとりと張り付いていた。
それなのに雲間に見える空は抜けるように青く透明で清々しい。

父サクモが死んだ日と、同じ空だった。
あの日から父は愛すべき存在から不幸の象徴になった。

父の愛と庇護を全身全霊で求め、それが当然与えられると無邪気にも信じていた幼い息子を残して、なぜ父は自死出来たのだろう。
幼くも既に忍としては一流だったのだから、任務で落命したのならまだ納得も出来た。
どうしても生きられなかったのなら、なぜ、そこを取り繕ってくれなかったのだろう。
自死という死に方がどれだけ息子を傷つけるか、考えはしなかったのだろうか。
それとも本当は息子を愛していなかったのだろうか。
彼にとって息子は価値のない存在だったのだろうか。

そんなことばかり考えていた。

もがき苦しみ、泣き叫び、父に答えを求めても、答えが得られないこの問いは、内側から幼子を蝕み続け、生きるために必要な芯を食らい尽くす。
そうして空っぽになった心に、父への憎しみと恨みを詰め込んでいった。
皮肉にもその苛烈な思いが、幼い命をこの世に繋ぎとめていたのだと思う。

「父と同じになるもんか!」

血の滲む掌を握りしめ、そう吐き捨てた幼子。
歳を重ね、経験を積み、視野が広がるたびに、得られない答えの代わりに自ら答えを作り出した。

今から思えば自暴自棄だったり短絡的だったりした不確かな答えを、痛々しいほどに信じ込み、それに縋っていた。
父の死は乗り越えた。もう自分は大丈夫だと、暗示をかけ続けて。
ふとした瞬間に心に甦る、泣き叫ぶ幼い自分を無視し続けて。

そうやって必死に死から逃れてきた。

父さん! 父さん!

ことあるごとに頭に置かれた大きな手。
不揃いに切られた野菜がこれでもかと入っていた味噌汁。
煮崩れたり醤油辛かったりしたけど、いつだって美味しかった父さんの手料理。
まだ小さかった俺の手をとり、伸びた爪を慎重に慎重に切ってくれた父さん。
何かに夢中になっているとき、ふと視線を感じて振り向いてみれば、いつだって父さんが優しい目で俺を見ていた。

どれもこれも、全部ウソだったの?
当たり前すぎて意識もしなかったことが、急に重みを帯びて。


例えると、父は海だ。

俺は波打ち際に独りで立っている。
海に背を向ければ、真白の砂浜。その奥には青々とした草木、健気に咲く花。
穏やかで平和で綺麗な場所と、そこで笑う、楽しそうで幸せそうな人たち。
羨ましくて、眩しくて、憧れて。
いつか自分もそこに行くんだと真摯に信じ、足掻いたときもあった。

けれど、波が。

繰り返し押し寄せる波が、足元を濡らし、海の存在を突き付けてくる。
そうすると俺は平和な風景に背を向け、海に向き合うほかなくなる。
荒れ狂う海は圧倒的な質量で、いつだって俺を呑みこもうとした。
俺は波に足を取られそうになりながら、必死に踏ん張り、海を憎んでいた。

そうしたら。

あるとき天から声が降ってきた。

「濡れたお前の足で、あんなところにいけやしないよ。お前の足を拭いてくれる者なんて世界中どこを探しても、もういないんだよ」

それからは毎日毎日、何をしていたって、その声が何処からか聞こえてきたんだ。


幸せなもの不幸なもの。
憎いもの、愛しいもの。
楽しいこと、辛いこと。
いろんなものが絡まり合って成り立つ世界なのに、自分に幸せは決して訪れないのだと思い込み、色々なものを求める前から諦めていた。

それでも、父の死の真相を知りたい欲求は残り続けたけれど。
きっと、父に愛された確信が欲しかったのだ。
必死に手を伸ばし、得られないものを求め続けたあの幼子は、とても憐れで健気で哀しかった。

可哀想だった。本当に可哀想だった。


「俺、相当……頑張ったよねぇ……」


声に出してみると、封じ込めていた悲惨な記憶と共に生々しい感情が噴出する。
どうしてこんなことを忘れていられたのか、と驚くほど詳細に覚えていた記憶は、それがまるでつい数時間前に起きた出来事のように、俺の心に蘇り、心を引き裂き、切り刻む。
その量と勢いと圧倒的な痛みに完全に呑み込まれた俺は、どうすることも出来ず、吹き荒れる嵐が収まるのをただ待ち続けた。

かつては抗い、戦い、無きものとして扱った痛み、苦しみ、哀しみたち。
行き場のない感情たち。

先の大戦で一度死に、父と再開し、父に確かに愛されていたと思える今なら、その想いを抱きしめてやることが出来るだろうか。
そしてサスケ、ナルト、サクラを慈しみ、父の歳を越え、大人になった今なら父の真実を受け止めることが出来るだろうか。


俺は斑の空を眺めた。
この空を青いと感じるか灰色と感じるかは、きっと自分次第だ。


「もうひと踏ん張り、しないとな。空は青いほうがいいんだ」


代々火影に引き継がれる機密書類の中に、父サクモの死に関する巻物を見つけたときは息が止る思いだった。
読みたいという思いと、読みたくないという思いが同じ強さで俺を襲ったけれど、結局読めなかったのは、あれほど求め続けた真実を知るのが怖かったからだ。

だけど覚悟は、たった今決めた。
父の自死の真実に、俺は向き合う。

俺は部屋に戻り、身支度を済ませ火影屋敷へと向かった。




*



人払いをして、執務室に籠る。

里を見下ろす大窓に向かい、綱手様から教わった印を結ぶと、異空間に繋がる扉が現れた。
重厚な扉はアカデミーの図書室ほどの大きさの部屋に繋がっており、そこには年代別に整理された巻物の詰まった棚が等間隔に並んでいる。
十数歩進むと、目当ての棚に辿りつく。

ここに来るたびに読もうとし、結局読むことの出来なかった巻物を手にした。紐を解こうとする己の指が震えているのを見て、一旦巻物を棚に戻す。

自覚している以上に緊張し、怖れているようだ。
だけど、もう逃げはしない。
大きく息を吸い込んだ。
目を閉じて息を吐く。

もう一度。もう一度。
もう一度だ。


火影として世界の闇と矛盾を嫌というほど見てきた。
人の心の虚ろいやすさも、国の危うさも、脆さも。
多を生かすために捨てなければいけない個があることを、善良な人間ほどその贄になりやすいことも、上忍であったとき以上に実感した。

最近は、そんな世の理の枠の中で父の死の意味を考えてきた。

おそらく父は、仲間の命を優先し任務に失敗したから糾弾されたのではない。
<何を>したのかは問題ではなく <自らの意思>で動いたことが問題だったのだ。
逆に言えば、白い牙が里の意のままに動く存在であり続ける限り、どんなことをしても、その賛辞が覆されることはなかったのだろう。
しかし、里からの拝命よりも人命を優先したその瞬間、父は『全ての忍びは決して里に逆らわない』という人々の盲信を壊してしまったのだ。


忍は里に逆らわない。ひいては火の国に逆らわない。

その盲信がなければ、人々は己と比べ桁外れの強さを持つ忍とどうして共存出来ようか。
父が任務より己の感情を優先させたと知った里民が、火の国が、恐怖を通りこし恐慌状態に陥ったのは想像に難くない。
結局のところ、自分たちの制御できぬ<兵器>の存在は許さない。ということだ。

里に蔓延るその不文律を常に肌で感じ取り、自らの存在の不確かさに精神を苛まれていた木の葉の忍び達も、こぞって父を糾弾したのだろう。
木の葉の白い牙とまで呼ばれた忍が、なんということをしてくれたのだ、と。
さしたる実力もないが故に、里に依存して生きる道しかない自分たちまで危険な存在とみなされれば、この先家族を抱えてどうやって生きていけばよいのか、と。

俺を連れて容易に里抜けを出来たはずの父が、俺を遺してまで自死を選んだのは、忍世界の秩序を守るためだったのだろう。
父が里を抜ければ、あの人を慕う多くの忍びが、火の国の意のままに操られるを是としない勢力が、父と行動を共にしたはずだ。

そうなれば、ことは木の葉だけに留まらない。
世界における忍びとしての在り方を根本から揺るがすことになるだろう。

よって、火影は総力をあげて止めなければいけない。
同胞が互いに殺し合うその修羅場を父は容易に想像できたのだ。
だからこそ、自らをみせしめに自死するしかなかった。

怖れる人々の安心のために、里の命令に背いたあげく任務に失敗し、里民から仲間から糾弾され、精神を病み自死した憐れな男の末路を演じたのだと思う。
里の全ての忍びが、火の国で生き残る権利と引き換えに、父は命を絶った。
忍界の秩序を守るための贄となった。


真実はきっと、この予想に近いものに違いない。
大丈夫だ。
父は間違いなく俺を愛していた。


俺は再び巻物へと手を伸ばした。

もう指先は震えてはいなかった。


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