目覚め 〜1677万色の世界〜
解かれた巻物の中に俺は父の真実を、見た。
父が命を救った忍の名を見たときから、きっと身体のどこかが壊れてしまったのだろう。
止らない、涙。
多分、身体中の水分が涙になって出て行ってしまうんだ。
心の中の汚いもの、哀しいもの、全てを引き連れて。
父さんありがとう。そしてごめん。
信じられなくて、ごめん。疑って、ごめん。ずっと愛せなくて、ごめん。
やはり、父は心を病み、俺を忘れて自死したのではなかった。
巻物に書かれていた真実は、あまりにも哀しく残酷で、それでも色んな愛に満ち溢れていた。
任務よりも人命を優先したことで里に背いたとみなされ、苛烈で執拗な嫌がらせを受けていた父。
それでも毅然としていた父を、敬愛し擁護し続けた忍びも実際は多くいた。何ごともなければ、時が解決してくれただろう。
だけど、かねてから里の独立を悲願としていた志村ダンゾウに、父は目を付けられてしまった。
ダンゾウは父の信奉者に言葉巧みに近づき、<木の葉の白い牙>を糾弾する者たちへの怒りと、国の指導者や火影への不信感を育てあげていった。
一方で、里民の不安を煽り、怒りの矛先をサクモへ向けるよう腐心する。
両者の対立は激化してゆき、三代目火影ヒルゼン様の力をもってすら、その流れを止めることは出来なかった。
そうなってからダンゾウは父と接触し、謀反を持ちかけた。
書簡からはダンゾウがいかに苛烈に父に迫ったかが伝わってくる。それに抗い続けた父を追い詰めたのは、俺の存在だった。
ついにダンゾウが、言うことを聞かぬのであれば息子を殺す、と父を脅したのだ。
このとき、ダンゾウは勝利を確信していたに違いない。
いかに父と俺が強く、ヒルゼン様が後ろ盾についていたとしても、あの子煩悩な男が四六時中命を狙われる生活を息子に強いるはずがない、と。
ところが父は自らヒルゼン様に自死を申し出た。
己の自死が、里を守り、息子を守る最善で唯一の解決策だと、進言した。
ヒルゼン様はそれを拒絶し、他の解決策を血眼になって探したが、結局見つけられなかった。
刻一刻、対決の機運が高まってゆく中、ヒルゼン様は忸怩たる思いで父の決意を受け入れたのだろう。
火影として数年を過ごした今ならば、ヒルゼン様の苦悩や無念、悲哀が手に取るように分かる。
涙が止まらない。
父が少しづつおかしくなっていったときのことを覚えている。
酒量も増え、言動も異様になっていったけれど、腹を空かせた覚えも、着替えに困った覚えもない。父は俺の身の回りの世話をしてくれていたのだ。
狂人にそんなことが出来るものか。
そういえば俺に触れる手はいつだって優しかった。時折「カカシ」と名を呼び、力一杯抱きしめてくれた父の声は哀惜と慈愛に満ちていた。
父は、狂ってなどいなかった。
木の葉の白い牙と呼ばれ、伝説の三忍を凌ぐとまで謳われた最高の忍びが、人々の嘲笑に負け自死する憐れで哀しい男を演じたのだ。
息子の未来を守る為に。
あぁ父はどんな思いで、死ぬまでの数か月を過ごしたのだろう。
父は、後ろ盾を喪った俺がダンゾウの駒にされぬよう、ヒルゼン様といくつかの取り決めをしていた。
俺の上忍師が、次期火影と評されていたミナト先生であったことも、スリーマンセル解散後に火影直属の暗部に所属したことも、揺らがぬ強さを得て正規に戻されたことも、すべて父とヒルゼン様の采配だった。
全てを知った今、心にあるのは父とヒルゼン様への感謝と愛しさとやるせなさだった。
誰を恨む気持ちもなかった。
父を糾弾した里民の恐れを想像することは容易い。
ダンゾウが彼なりに里を必死に愛し尽くしていたことも分かる。
父の信奉者は、もちろん父を想っていた。
その苛烈な想いが父を追い詰めることに考えが及ばなかっただけで。
それぞれ守るべきものがあり、その行動に正当性があった。
自らの信条に沿って彼等は必死に生きただけだった。
ただ、彼等は真実を知ろうとする努力を放棄しつづけた。
愚かであり続けただけだ。
世の不幸の大半は、こうして紡がれていく。
そのことが、とてもとても悲しかった。
当事者でありながら、個の感情を保ちつつ事実を俯瞰した父サクモを俺は誇りに思う。
父と同じ視点で最後まで父に添ってくれたヒルゼン様は偉大だったと思う。
*
壮大な叙事詩を読み終えたときのような心持で巻物を開き終えると、一枚の紙が巻き込まれているのを見つけた。
震える指で二つに折られた紙を丁寧に開き、視線を落とす。
ドクリ。と心臓が大きく跳ねる。
懐かしい、父の字。
真面目で几帳面な父らしく、まるで手本のように美しい楷書がつづられたその紙は、大人になった俺に宛てられた手紙だった。
父の手紙を読み終えた俺は、床に崩れ落ち、みっともないくらいに大声を上げて父を呼び、泣き叫んだ。
俺は愛されていた!!!
こんなにも父に愛されていた!!
ヒルゼン様も、ミナト先生も、クシナさんも、テンゾウも、アスマも、紅も、ガイも。
サスケもナルトもサクラだって俺に想いをくれた。
そして、イルカ。
ずっと俺の側で俺を支えてくれた俺の恋人。
どうして気付けなかったのだろう。俺はずっと独りじゃなかった。
海は偉大でその水面は陽光を照らしキラキラと眩い光を放っていたのに。
濡れた足のままで、どこにだっていけたのに。
手に入らないと信じ切っていた幸せを、既に手にいれていたというのに!!
あぁ、イルカ、イルカ、イルカ。
今すぐアナタに会いたい!
*
「うわっ!」
目の前に突然現れた俺に、驚きの声をあげるイルカを、力いっぱい抱きしめた。
「ちょっ、カカシさんっ、ここ受付っ」
「ん……ごめ……」
その瞬間、独特の浮遊感を感じ、イルカが瞬身を使ったことを知る。
飛んだ先は俺たちの暮らす家だった。
未だ涙の止まらない俺の背を、イルカは優しく撫でてくれる。
何度も、何度も。励ますように、慰めるように。
背を滑る温かな掌にイルカの溢れる想いを感じ、俺はまた泣いた。
気が済むまで泣き、ようやく落ち着きを取り戻した俺をイルカはソファに座らせてくれた。
「珈琲でも淹れましょうか?」
どうして泣いているのか、とか。
勤務時間中ではないのか、とか。
きっと聞きたいことは山ほどあるだろうに、日常の会話を振ってくれるイルカの優しさが胸にしみる。
「お願いします」
台所に向かうイルカの背中を見つめる。
付き合い始めた頃より、筋肉が落ち少し小さくなった背中。
かつて漆黒で艶やかだった髪には最近になって白いものが目立ちはじめた。
俺と共に生きた10年は、彼にとってどんな意味があったのだろう。
イルカは細口の薬缶を火にかけてから、珈琲豆の入った瓶を水屋から取り出し、豆をミルで挽きはじめた。
辺りに漂う仄かな香りに目を細める。
シュンシュンと薬缶が音を立てはじめる頃になって、俺はポツリ、ポツリと今日の出来事を話し出す。
「火影に就任した次の日、歴代の火影だけが入れる部屋で、俺はある巻物を見つけました」
イルカは俺に視線を寄越して軽く頷いてから、豆を挽く作業に戻った。
珈琲豆の香りが少しづつ、少しづつ、部屋に溶けだしていく。
「読みたい、と思う反面、読むのが恐ろしくて」
イルカは挽き終えた豆を、布のフィルターに入れ、サーバーにセットした。
銀色の薬缶から細い糸のような湯が注がれた途端、ブワリと濃厚な珈琲の香りが立ちのぼる。
湯気が思いのほか白いことに気付いた俺はソファから立ち上がり、ストーブに火を入れた。
イルカは結構な寒がりだ。
「ありがとうございます」と真剣な眼差しで薬缶を傾けながらイルカが言った。
イルカは俺の為ならいつだって真剣だった。
仕事が忙しいからと自分のことは適当に済ませるくせに、俺の為に丁寧に珈琲を淹れ、心をこめて食事をつくり、綺麗に部屋を、衣類を整えてくれる。
そうして俺に快適な生活を与えてくれる。
こんなにも俺を想ってくれる人がいたのに、心のどこかに孤独を抱えていた俺は身勝手だったと思う。そんな自分を責めたりはしないけれど、これからは今までよりも、もっともっとイルカを大切にしたい。
フィルターから滴る黒い滴をイルカと俺が見つめている。
最後の一滴が落ち、俺とイルカは互いを見つめ合った。
「でも、さっきその巻物を読んできました。父の自死に関する真相が書かれた巻物です」
イルカの穏やかだった顔から、一瞬で血の気が引いた。
どうしたのだろう。とても心配だ。
「イルカ?」
名を呼ぶと、イルカがカタカタと震えだした。
顔から一切の表情が消え、まるで能面のようだ。
尋常でないイルカの様子に俺は驚き、イルカに駆け寄った。
「カカシさん、すみません!!」
抱きしめようと伸ばした腕を、血を吐くような叫びで拒まれた。
「イルカ、どうしたの!?」
「申し訳ありません! サクモ様が死んでしまったのは俺の父、うみのイッカクのせいです! 俺の父を助けたばかりにサクモ様は……!」
「イルカ、知って……たの?」
父サクモが救った忍は、イルカの父親だった。
これは先ほど巻物を読んで知った事実だ。
父の報告書を読んだヒルゼン様がすぐさまこの件を機密事項に指定したため、イッカクの名が一般に知られることはなかった。
事実を知る者には箝口令が敷かれていただろうし、このことはイルカも知らないと思っていた。
勿論、俺から言うつもりもなかった。
だってイルカが苦しむのは嫌だ。
「ねぇ、イルカ。いつから知ってたの?」
「幼い頃から気付いていました。木の葉の白い牙が自死した日、父も母も大声をあげて泣きました。あの日以来、父は毎日口癖のようにこう言っていたのです。『お前たちとこうして居れるのもあの方のおかげだ。俺はあの方の命を奪って永らえた。あの方のご子息には大変申し訳ないことをした』と。父は、サクモ様に救っていただいた命を大切にし、本当に日々を丁寧に生きていました。父と母に愛され俺は満たされた幼少期を送りました。だけど、あなたはたったひとりの身内を失って……! 貴方の幸せを犠牲にして、俺はのうのうと生きていたんです」
「違う! アナタもイッカクさんも悪くない。イルカ、自分を責めないで」
「いいえ、俺は……俺はっ! 父が生きて帰ったことが嬉しくて、父親を喪い、独りぼっちになった子どもの辛さを考えることが出来なかった。貴方に会って、貴方に惹かれ、貴方の中にぽっかりと空いた穴を見つけて、初めて己の罪を自覚したのです」
「イルカ。落ち着いて聞いて。貴方は子どもだった。俺の痛みなんて分からなくて当然の子どもだった。アカデミーの教師として、小さな子どもを沢山みてきたアナタには、それが分かるはずです。貴方は少しも悪くないんです。どうか自分を罰しないで。それに今まで、俺があなたの存在にどれだけ助けられてきたか、知らないとは言わせないよ」
「そんな……。俺は大人になっても身勝手でした。こんな身の上なのに、貴方をどんどん好きになってしまって、貴方から告白されたときは嬉しくて嬉しくて天にも昇る心地だった。本当はあのときに父のことを話すべきだったのに、貴方に嫌われるのが怖くて、言えなかったんです。ずっとずっと貴方に謝りたかった!」
「イルカ、そんな気持ちをずっと抱えながら俺の側にいてくれたの? 辛かったでしょう? それなのに別れずにいてくれて、ずっと俺を愛して支えてくれて、本当にありがとう。ねぇ、イルカ。今アナタを抱きしめてあげたい」
イルカは小さく首を横に振り、数歩後ずさった。
その瞳には強い自責の念と、拒絶の意志が浮かんでいて、俺は哀しくなる。
この人が胸に抱き続けた痛みと悲しみは、一体どれほどのものだったのだろう。
イルカが血の気の失せた唇を、力なく開いた。
「きっと、サクモ様はこの状況をお嘆きになっていることでしょう」
「そんなことはないよ、イルカ」
俺は、懐に大切にしまっていた手紙を取り出した。
「ここにちゃんと書いてあります」
「カカシさん、これ……は?」
「父が俺に遺してくれた手紙です。俺の心が真実を受け止められるようになったときに、当代の火影を通じて渡される手筈になっていました。まさか俺自身が火影になるなんて、父は思ってもみなかっただろうけど。
ね、イルカ、読んでみて」
恐る恐る、といった目でイルカが俺を見た。
二つ折りにされていた便箋を広げ、イルカに差し出す。
イルカが手を伸ばすまで、随分と長い時間がかかったけれど、やがてイルカの視線が文字を追い始める。
*
愛する息子へ
カカシ。この手紙がお前の手に渡ったことを嬉しく思っているよ。
今、お前は幾つだろうか。きっとすごく母さんに似ているのだろうな。それとも私に似ているだろうか。
私が死んだあと、お前がどれほどの苦しみと悲しみを抱えて生きてきたかを考えると胸が潰れそうだ。
よく歪まずに生き抜いてくれた。よく耐え抜いてくれた。
私はお前を誇りに思うよ。
カカシ、火影様から真実を聞き、少しは楽になれただろうか。
出来ることならお前の側で、お前の成長を見守りたかった。
その手段をギリギリまで探していたけど、ダメだったんだ。
自死という形をとることで、お前が深く傷つくことも分かっていたけれど、もうどうしようもないところまで現実が進んでいた。
未然に防ぐことが出来なかったのは俺の不甲斐なさだ。だらしない父ですまない。
死を決意した今になって、私は自分の命を惜しんでいるよ。
今まで散々他人の命を奪ってきたのに、身勝手なものだな。
カカシ、お前との別れが辛い。
この先、お前の成長を見られないのが辛い。
お前を独り遺していくのがたまらなく辛いんだ。
愛しているよ。カカシ。
お前は私の生きがいだった。
お前の笑顔が一番の宝物だった。
どうか、それだけは信じて欲しい。
カカシ。私はお前が大切で、愛しい。
カカシ。
こんなことになってしまったけれど、不思議なことに父さんは誰のことも恨んではいないんだ。
イッカクの命を救ったことも後悔していない。
彼と同じ任務についたのは初めてだったが、私たちはすぐに打ち解けた。
イッカクは明朗快活で利発で善良で、気持ちのいい男だった。
お前より3つ下の息子のことを嬉しそうに話していたよ。私もお前の自慢話を沢山聞いてもらった。
共にすごした時間は短かったが、私は彼を親友だと思っている。
イッカクが殺されそうになったとき、咄嗟に身体が動いたことを今でも誇りに思っているんだ。
カカシ。ひょっとしたらお前はうみのイルカと出会えているかな?
イルカはイッカクが大切に育てている1人息子だ。
彼ならばきっと、お前の心の支えになってくれるだろう。
お前は不幸にも両親を早くに亡くしたけれど、きっとお前の周りには沢山の人がいてお前に愛情を注いでくれていると思う。
向けられる愛情を大切にして、愛情を返して、どうか幸せな人生を送って欲しい。
カカシ、父さんも母さんもいつだってお前のことを心から愛しているよ。
カカシ、お前は幸せになるために生まれてきたんだ。
何があっても、このことだけは決して忘れないで欲しい。
はたけサクモ
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「うっ……あぁっ……」
その場に泣き崩れたイルカに走り寄り、抱きしめる。
こんなときは、声をあげて好きなだけ泣けばいい。
泣いて泣いて、全て出しきってしまえばいい。
俺たちは今日、物ごとを白か黒かで判断する愚かさを知った。
何十年も心に持ち続けた痛みですら美しいものに変わり得ることを知った。
どれだけ傷を負っても、幸せになれることを知ったんだ。
ねぇ、イルカ。
もう過去を怖れずに、互いにきつく抱き合い、温もりを分かち合って、幸せな気持ちで眠ろう?
そして目覚めたら。
白と黒の世界を手放して、1677万色の世界に飛び込むんだ。
完