秘密劇場 空に響け、愛の歌 <2>
落葉樹はその名のとおり秋に全ての葉を落し、落とされた葉は多種多様な生物の命の糧となる。
母なる木が息をひそめる秋から冬は、常緑樹と針葉樹の天下だ。
彼等は日差しを独占し、すくすくと背を伸ばしてゆく。
その葉は厚く、陽の光を透さない。
冬の間に無頼に伸びる枝を打ち払い、下草を刈らなければ、春に小さな葉をつける命の木は、陽の恵みを受けることなく、枯れ果てるだろう。
人の手を入れなければ、秋に鮮やかに燃えあがる豊かな山は、野生の獣が好む鬱蒼とした青い山になってしまう。
里山の管理は、安全に暮らしてゆくために不可欠な仕事。
「もう一度聞く。この家と周囲の時間がズレているのはどうして?」
「知らない、知らないッ!!」
突然取り乱したイルカを前に、カカシは、本人が拒む現実をイルカに突き付けている己の残酷さにたじろいだ。
脳裏に父の声がよぎる。
『何があっても決して怯まず、二人の絆を信じるんだ』
二人の絆。
たしかにカカシはイルカに心を捧げていたが、二人の関係は親しい友人の域を超えたことは一度もなかった。
――父さん、俺はどうすればいい?
この世界でイルカが完全に幸せなら、ひょっとすれば諦めもついたかもしれない。
だけど、ここで両親と暮らすイルカの眼には、うすら暗い何かがべっとりと張り付いているのだ。
イルカの憂いを取り払ってやりたかった。
屈託なく笑うイルカを見たかった。
イルカが幸せになるためなら、どんなことだってしてやりたい。
それがカカシの<本当の望み>
父は、イルカと共に戻り、イルカと共に生きろといった。
現世に、恋人はいないけれど、そこには愛情を分け合った同僚も、親子のように信頼し合う生徒たちも、命を預け合える仲間もいる。
彼等の想いはイルカを癒すだろう。
現世でイルカが幸せになる可能性を信じたカカシは、イルカの<本当の望み>を暴く覚悟を決めた。
――ごめん。イルカ
「イルカは知っているはずだよ。山の様子から見て、イルカが暮らしていた頃から少なくとも十数年は経っている」
カカシは冷徹な言葉を積み重ね、イルカを追い詰めていく。
「十数年前といえば、俺が上忍師としてイルカと出会った頃だ。あの頃に、イルカは<本当の望み>を見つけたんじゃないの?」
「違う。そうじゃない! 俺が望むのは今のこの暮らしなんだ! だって、恋なんて知りたくなかったんだからッ!」
それは血を吐くような叫びだった。
パリン。
世界が割れる。
鏡に映された景色が砕け散るように、幼いイルカの世界が壊れて消えた。
*
何もなくなった空間に浮かび上がってきたのは、アカデミーの音楽室だった。
漆黒の羽根を広げた美しいピアノ。
その鍵盤を前に、イルカが座っている。
この日のことはカカシの記憶にしっかりと焼き付いている。
音楽会にむけて合唱伴奏の練習をする、というイルカに同行を申し出た。
せっかくきたのだから、とカカシはイルカから生徒役をおおせつかり、イルカの伴奏で歌わされたのだった。
「に〜げ〜ろ に〜げろ〜 よーわーむーしーどーもー♪
……ねぇ、イルカ先生これホントに歌わなきゃダメ? かなり恥ずかしいんだけど」
苦笑いのカカシを、イルカが満面の笑みでやりこめた。
「上忍師の貴方が恥ずかしがってどうするんですか! そういうの、子どもはすぐに見抜きますよ。教師にとって子どもの目線に立ち、真剣にものごとに取り組むというのは、とても大事なことなんです」
「すみませんでした。イルカ先生。では、よろしくご指導お願いします」
大袈裟にお辞儀をしてみせると、イルカは両手をわたわたと振りながら慌てた。
頭をあげたカカシが、真っ赤な顔のイルカをみて、プッと吹きだす。
すると、何故かどんどん楽しくなってきて、二人はついに腹を抱えて笑いはじめた。
忍であるはずの彼等が、心の底から笑ったのだ。
あのときの幸せに輝いたイルカの笑顔は、今でもカカシの生きる支えとなっている。
イルカの伴奏にのせて、カカシは再び歌い出す。
「♪に〜げ〜ろ に〜げろ〜 よーわーむーしーどーもー
に〜げ〜ろ に〜げろ〜 ぐずぐず すーーーるーーーなぁーーー♪
♪はやく しないと つのを おーるぞー
いそいで はしって しっぽに かみつくぞー
おーれはー ティーラノー ザ〜ウ〜ル〜スだーっ♪」
イルカはすっかり教師で、「カカシ先生、口をもっと縦に大きくあけて!」だの「息継ぎの場所が間違っていますよ!」だのと、熱心にカカシに指導する。
「ここはもっとティラノザウルスの気持ちになって歌ってください」
「そんな……恐竜の気持ちなんて分かりません」
「では、一度ティラノザウルスになりきってみて。ガオーッ! って叫びながら、ノシノシ歩いてみてください」
「え!? 俺が?」
なんの冗談かとイルカを見返すカカシだったが、イルカの眼は真剣そのもので。
「が、がぉ?」
躊躇いがちに吼えてみれば「声が小さいです!」と怒られた。
たった一刻ほどの間に、どれほど笑っただろうか。
カカシにとってイルカと過ごす時間は、荒れ狂う海の上に浮かぶ小島であり、暗い洞穴に天から垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。
「カカシ先生、練習につきあってくださり、ありがとうございました」
練習が終われば、イルカとの時間も終わってしまう。
カカシは咄嗟に声をあげた。
「ねぇ、何か弾いてよ」
「えっ……?」
イルカは鍵盤に置いたままの己の手を少しの間見たあとで、パラパラと指を動かしはじめた。
彼のためらいを示しているようなその動きに、カカシは再度口を開く。
「お願い」
どこか切羽づまった響きのカカシの声を、イルカは無視できない。
「いいですけど、大して上手くは弾けませんよ。最近は練習する時間もとれていないですし」
「充分です」
そのひとことに、どれほどの喜びが滲みでていたことだろう。
「でも、本気で弾いているときの顔を見られるのは恥ずかしいので、こっちを見ないでくださいね」
カカシにとっては些か残念な条件つきで、その望みは叶えられることになる。
「はい」と答えたカカシは、開かれた羽根の間から、ピアノの内部に視線を移した。
消え入りそうなほど儚く繊細な音から始まった曲は、スラーに導かれるように甘美な旋律を辿っていく。
ときに、優しく、ときに強く弦を叩くハンマー。
透き通った和音の持続のために、ダンパーは細やかに上下する。
イルカの指先が、イルカの爪先が、これらの部品を動かし、今まさに耳に届いている音を紡いでいると思えば、カカシには無機物すら愛おしく思えて仕方がなかった。
赦しに満ちた優しく円やかな音で、繰り返し紡がれる主題。
その中から時折浮かび上がり、存在を主張する中声部の、身を捩るような哀切とためらいが、カカシの胸を深く打つ。
――あぁ、これは恋の詩だ
イルカ先生は心に想う人がいるのだと、カカシはこのとき悟った。
自分ではない誰かに向けられる貴い想いが、この曲をこんなにも美しくした。
――どうか、イルカ先生の恋が叶いますように
哀しみとあきらめを凝縮した一粒の涙が、カカシの頬を伝い落ちた。
この日生じた痛みを、カカシは今でも抱え続けている。
カカシはピアノを覗き込む当時の自分を、憐れみと慈しみを込めて見つめた。
報われぬ恋ではあったが、イルカのおかげで人を愛するという喜びを知ることができた。
あの頃の自分はそれだけで満足してしまった。
イルカは、なぜカカシに顔を見るなといったのか。
どんな顔をして、この曲を弾いていたのか。
今は、それが知りたい。
抗いがたい誘惑に負けたカカシは、イルカの顔を遠慮がちに見た。
ひゅぅ、と唇から音が漏れ、心音はその音を一拍分、飛ばす。
イルカが、泣いていた。
ピアノを眺めるカカシをひたと見つめ、静かに涙を流していた。
――イルカ、どうして?
最後の和音を研ぎ澄まされた感性で空間に解き放ったイルカは、涙を丁寧に拭い去り、作り物の笑顔をまとって目の前のカカシに話しかけた。
「いかがでしたか?」
「とても素晴らしい演奏でした。これは……恋の詩ですか?」
イルカの瞳が揺らいだ。
一瞬の間合いのあと、口をひらく
「ええ。この曲を聴いて、カカシさんは誰かを想いましたか?」
かつてのカカシは俯き、答えた。
「……はい」
イルカの顔が歪む。今にも泣いてしまいそうだ。
その様子を見ていたカカシは、たまらず叫んでいた。
「俺は貴方を想いました!」
しかし、声は届かない。
「こんなに感動したのは初めてです。だから何かお礼をさせてください、イルカ先生」
かつてのカカシの言葉に、イルカは目を瞑り、天井を仰いだ。
まるで流れ出す涙をこらえるかのようなその動作に、カカシの胸が潰れそうになる。
「だったら、これから俺のことを”イルカ”と呼んでくれますか?」
「え? そんなことでいいんですか?」
「俺はそれだけで満足ですから」
部屋に漂う二人分の哀しみ。
それはあまりに重く、カカシは身じろぎすることさえ出来なかった。
――この日、俺たちは何かを間違えた。
最初は小さな間違いだったかもしれない、だけどそれは時を経るにつれ、大きな亀裂となり、ついにはイルカを呑みこんでしまった。
カカシは、そんな気がしてならなかった。
――俺たちは何を間違えたのだろう。
カカシの顔を見つめ、泣きながらイルカが弾いた恋の詩。
その対価として望まれた呼称。
そうだ、この曲は……
後に精神を病む作曲家が、若かりし頃にピアニストである恋人に捧げた、ある曲集。
その第7曲目にあたる、この曲の名は……○○○○○○。
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答えはトロイメライでした。
シューマン作曲 子どもの情景という曲集に入っています。
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