大魔神の壺 <2>
「イルカせんせ、これを貴方に持っていて欲しいんです」恋人として10年以上を共に過ごしたカカシがイルカの手に乗せたのは、見るからに古い真鍮の鍵だった。
「これ……は?」
「父さんが俺に遺してくれた家の鍵です。俺は当分の間は火影屋敷で暮らすことになります。だけど仕事が落ち着いたら貴方と一緒にはたけの家で暮らしたい。俺が帰る場所を、貴方に守ってもらいたいんです」
もちろん名義も貴方のものに、と続けたカカシにイルカは戸惑いを隠せない。
「そんな。お気持ちは嬉しいですし俺は何があってもカカシさんを支えると決めていますけど、大切なお家をいただくというのはちょっと違う気がします」
「どうして?」
「お父様が遺してくださったお家は、あなたのものであるべきです」
「だからこそ先生にあげたい、と言ったら?」
鍵を返そうとしたイルカをカカシは制し、彼のひらを両手で優しく握り込んだ。
「イルカ先生。今まで俺はずっと貴方の気持ちを優先してきました。でも、もう里の最高権力者になったんだから好き勝手にやらせてもらいますよ。
はたけの家をもらってください。それから、俺はあなたと結婚します。イルカ先生が嫌だって言ったって結婚します。これは火影命令であり、あなたに拒否権はありません」
甘い声音で強引な言葉を発した唇は、そのままイルカの額に落ちてチュッと軽い音をたてた。
「カッ……カカシさんっ!」
真っ赤になってカカシを見上げたイルカの目に、幸せそうに笑うカカシが映り込む。
長い付き合いの中で一緒になろうかという話が出たのは一度や二度ではない。その度に待ったをかけてきたのはイルカであり、カカシはイルカの結論を淡々と受け入れ続けた。
イルカには、いつかカカシが自らの血を分けた子を欲するのではないか、という疑念があった。カカシの望みは全て叶えてやりたいが、子どもばかりは男の身体ではどうしようもない。
カカシの幸せを願うからこそ結婚という決断が出来ずにいたけれど。最愛の人にこんな顔で微笑まれてしまったら。
「せんせ、返事は?」
これはもう腹を括るしかない。
「はい。喜んで」
「ありがとうイルカ先生。本当にありがとう」
何度も何度もカカシはイルカにお礼を言って、その逞しい躰をぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きしめる。
「痛いですよ、カカシさん」
イルカも負けじとカカシを抱きしめ返した。
「俺も痛いです」
痛い痛いと言いながら、お互いを抱きしめる腕は緩むことはなく、子どものように大声をあげて笑いあった。
「今から家を見に行こう? イルカ先生が気に入ってくれるといいんだけど」
「あなたが育った家だ。どんな家でも大好きになりますよ」
二人は里の中心部を抜け、住宅地を抜け塗装のされていない道を歩き、小川に架かった橋を渡り、ついに防風林に守られた屋敷の前に立った。
見るからに上質の木材、おそらくは管材を用いて建てられた木目麗しい平屋は、屋根に青魚の鱗のように輝く瓦を乗せていた。
決して豪奢ではなく、むしろ控えめであるのに圧倒的な存在感がある。
かつての家主の在り様そのもののようなこの屋敷を、イルカは一目で気に入った。イルカの様子を見ていたカカシもそれに気づいたようで、満足気だ。
「実は父が亡くなってから暫くはここに独りで住んでいました。だけど辛くて長くは住めなかった。アパートに引っ越してからは一度も来たことがないのに。
どうしてかな? 火影になると決めてからここでイルカ先生と暮らしたくなって」
イルカはカカシの心の機微を何一つ見逃すまいといった様子でカカシを見つめている。
「懐かしい……いや、ちがうかな。愛おしい? 言葉にするのはとても難しいんだけど、今から思えば俺たち家族はとても仲が良かったんだ。
母さんは陽気な人で家事をしながらよく流行りの歌を歌っていました。透明感のある可愛らしい声なんだけど恐ろしく音痴で母が歌いだすと父も俺も笑ってしまうの。そうしたら母さんは益々大きな声で歌うんです。
面白い人だよね。
けど、怒るとすごく怖かった。俺と父さんはね、いたずらをしてよく母さんを怒らせていました。
父さんはね、母さんがいるときはまるで子どもだった。
俺と一緒に台所にある長ネギや牛蒡でチャンバラごっこをして『食べ物で遊んではいけません』って母さんに怒られて、今日みたいな寒い日に廊下に立たされたこともあったなぁ。でも母さんって可笑しいんだ。鬼みたいな顔をしてお湯の入った大きな盥をもってきて『あなたたち、そこにじっと立っていたら足が冷たいでしょ』って置いてくの。足を拭くためのタオルまでちゃんと用意してね。立ってろ、って言ったのは母さんなのに。
父さんと俺は神妙な顔で盥に足をつけて廊下に立ってた。ここで何か言ったりしたら母さんを更に怒らせるって分かっていたからね。
そうそう。いたずらといえばね、遊びで作った起爆札が本当に爆発して部屋をひとつダメにしたこともあったなぁ。白煙の向こうから父さんと母さんがすごい形相で走ってきて、これ絶対怒られるって覚悟していたら力一杯抱きしめられてね。
『怪我はないか? どこも痛くないか?』って。二人とも半泣きになりながら必死に聞いてくるんだ。
なんだか、ね。ありがたくって、たまんないよね。
ま、後で二人からこっぴどく怒られたんだけど。
少し前まではね、子どもの頃の幸せな思い出ですら心に浮かぶと辛くて仕方がなかったのに、あの世で父さんに会ってからは思い返す全てのことがただただ愛しくて」
細められた目は今にも泣きだしそうに見えたけれど、そこに悲壮さがないことにイルカは胸をなで下ろした。
ポケットの中でずっと握りしめていた鍵は随分と温みをもちはじめていた。
「素敵なご両親に大切に育ててもらったんですね」
「はい」
恋人の誇らしげな横顔をひとしきり眺めてからイルカは鍵穴にそっと鍵を差し入れた。右に回すと小気味よい音をたてて鍵が開く。
イルカは引き戸をゆっくりと開いた。
「あぁ……。これはすこし、ひどいね」
カカシは落胆した様子で玄関を見渡した。
いつだってピカピカに輝いていた床には埃が積り、淀んだ空気には僅かながら黴の臭いが混じっている。靴箱の上の花瓶に挿された花は色も水分も喪って、まるでミイラだ。
「母さんはいつも花を飾っていました。居なくなってからは父が。そのあとは俺が」
カカシが悼む指先で花弁に触れると、クシャリと小さな音と共に花が落ちた。
イルカの慰める手がカカシに当てられ、ゆっくりと優しく背を叩く。
「この花瓶は母のお気に入りだったそうです。母は花が好きだったのかな?
母は早くに死んでしまったので想い出は少なくて、どんな人だったのか本当は分からない。実はさっきの話も父から聞いたもので、俺は母のことをほとんど憶えていないの」
こんなとき、イルカは言葉がどれほど無力かを思い知る。イルカには胸のうちにある複雑な気持ちを眼差しに込めてカカシを見つめることしか出来なかった。
「父さんに会って話しをして、両親に対する疑問も未練もすべて消えたと思っていたのにね。
自分の家族を持とうと決めてから母さんのことを考えてしまう。
正直驚いています。理由なんてわからない。母さんは幼い俺にどう接していたんだろう。とか、生きていたら今の俺にどんな言葉をかけてくれるんだろう、って考えてしまう。
この間、昔の仲間が結婚するってんで居酒屋に集まったんだけど、そのときの俺、すごく酷かったよ。
家族に婚約者を紹介したら『こんな善い人をよくぞ連れてきてくれた、お前は絶対に幸せになる』って母親が大喜びしてくれたんだって。
アイツ、すっごい誇らしそうに話してて、俺はきっと羨ましかったんだろうね。気づいたら『俺も』って言ってました」
「え?」
「うん。びっくりするよね。『俺ももうすぐイルカ先生に求婚するし、母さんもイルカ先生との結婚をとても楽しみにしてくれてる』って言っちゃったの。みんなもビックリしてた。
でも、『そりゃぁイルカと結婚するって聞いて喜ばない親はいない』だとか『ご両親のためにもプロポーズの成功を祈ってるぞ』とか温かい言葉を次々とかけてくれてね。
あの場にいた半数近くが親を亡くしているから、なんとなく俺の気持ちを分かってくれたんだろうね」
そこに居合わせた彼らは優しくて、優しくて、優しくて。そしてちょっと悲しい。
「それでね、まるで俺の両親が生きているかのように話しを合わせてくれるもんだから、つい俺も調子に乗って、こんな風だったらいいな、っていう話を沢山してきました。楽しかった」
「ほう。で、どんなことを話したんです?」
「うん。この家でね、父さんと母さんにイルカ先生と結婚するって言ったんだ。
そうしたら二人ともとても喜んで、先生に会ってみたいって言うから、先生に家に来てもらったの。
父さんも母さんも先生のことが大好きになって、母さんなんか感激して泣いちゃって、息子のことをどうかよろしくお願いします。って先生の両手を握りしめて長いこと離さなかった。
父さんはね、俺が新しい家族を作ることが感慨深いみたいで妙にしんみりしてたんだけど、台所からとっておきの酒瓶を持ってきて『めでたい、呑もう』って言ってからが凄かった。豪快に飲んで大声で笑って俺の背中をバシバシ叩いて『よくやった!カカシ!! 最高の伴侶を得たな!』って大はしゃぎでね。
イルカ先生もすっごい楽しそうに笑ってて、父さんや母さんに俺の子どもの頃の話を聞くの。恥ずかしいからやめてほしいんだけど、父さんも母さんもイルカ先生もとても嬉しそうだったから、止めなかった」
「そうでしたか。きっとお二人とも生きておられたらそうなっていたんでしょうね」
「うん。きっとね。
ごめんねイルカ。あなたがいてくれるのに俺はこんな淋しさを抱えてる。もう辛くはないんだけど、拭えない侘しさと虚しさが此処ある」
カカシは指先でトンと自らの胸を突いた。
「はい。でもそれは大切にすべきものです」
「うん。そうなんだろうと思う。
俺はね『イルカと幸せになります』ってちゃんと二人に伝えて祝福してもらいたかった。父さんと母さんがめいっぱい喜ぶ姿を見たかった」
愛しい人の切実な願いはどうあっても叶えることができない。
切なくて、やるせなくて、イルカは無力感に目を伏せた。
せめて家族が暮らしたこの屋敷を元の姿に、と思う。
「カカシさん、家は手を入れれば大丈夫ですよ。そりゃあカカシさんが住んでいた頃と全く同じというわけにはいかないでしょうけど雰囲気は取り戻せると思います。俺、頑張ります」
「ありがとうイルカ先生」
それからカカシの案内でイルカは各部屋を見て回った。
広い玄関を入ると廊下の奥に五畳ほどの洗面室。その奥に風呂場。洗面台と風呂場の壁は揃いの発色の良い水色のタイルで施工されており、洒脱だ。
「珍しい色合いのタイルですね。とても綺麗です」
「波の国から取り寄せたと父が話していたよ。このタイルは母のお気に入りだったんだって」
「じゃあ大事に使わなきゃ。
目地にカビを生やさないよう、毎日の掃除をがんばりますね」
「ありがとう。でも大変だから一緒にしよう? タイルの風呂場ってね、今も寒いけど冬場は本当に凍えるくらいに寒いから。
でも俺は独りになるまでそれを知らなかった。父も母も、俺が入る前に脱衣所と風呂場をしっかりと暖めてくれていたみたい」
「亡くなってから気づくこと、沢山ありますよね」
「気づくたびに心が抉られたよね。大切に愛されていたことを喜ぶべきなのか遺されてしまったことを哀しむべきなのか分からなくて、随分と長い間混乱していたけど、今は愛されていて良かったと思う。そう思わせてくれたのはイルカ先生だよ。あなたのおかげで俺は救われました」
「俺もですよ。お互い様ですかね」
欠けたもの同士が惹かれ合い、補い合い、癒し合い、励まし合い、地獄のような過去を乗り越えてきた。長く苦しい道のりだった。途中で生きることを投げ出したとしても仕方ないくらいの苦しみと共に、彼らは自らの内面に向き合い続けた。
永い時間を戦い抜け、ついに過去を過去とし、今を勝ち取った。
イルカもカカシも、そうなって初めて自分を誇ることができた。
彼らはどちらからともなく視線を合わせ、しばらくの間見つめ合った。
次第に照れくさくなったのか、イルカがカカシを促した。
「そろそろ、いきましょうか」
二人が次に向かった先は台所だった。
カカシの母はよく料理をしたらしく、大きな水屋の隣に設えた棚には様々なサイズの漬物用の壺や漬物石、果実酒用の瓶などが規則正しく並べられていた。下段には結構な大きさの味噌樽まである。
ここで母は味噌や漬物を仕込み、夫と愛し幼子のために日々食事を作ったのだろう。短い人生だったと聞く。もっともっと家族のために料理を作りたかったろうと思う。
「母さんはとても料理上手だったと父が言ってたよ。何を食べても美味しかったけど特に茄子の味噌汁とサンマの塩焼きが美味しかった、と。
父はよく茄子の味噌汁を作りサンマを焼いてくれだけど、どう頑張っても母さんの味にならないと作るたびに首をかしげていたなぁ」
カカシは口元に微笑を浮かべ目を細めて台所を見渡した。イルカはカカシが見るものを追っている。カカシの視線が流し台を通り、食器棚を通り、それからダイニングテーブルの上の写真立ての上で止まった。
在りし日の、はたけ家。
とびきりの笑顔で肩を寄せ合う一組の男女。今のカカシによく似た男性は、逞しい腕に銀髪の赤子を抱いている。
「これが父さんと母さん。俺の家族だった人」
イルカは言葉もなくその写真を見つめ、カカシの今までの人生を思った。
写真が示す、溢れんばかりの幸福を奪われた幼少期。
母が死に、父が死に、その後も立て続けに起こる不幸に、自らを憐れんで一生泣いて暮したとしても、怒り狂い誰かを傷つけ続けたとしても、助けてと泣き叫び誰かに縋るだけだったとしても、誰が彼を責められただろう。そうやって刃を外に向けて生きたほうが、どれだけ楽だっただろう。
けれどカカシはその全てを自らに赦さず、刃を己の内に向け続けた。
だからこそ今のカカシがあり、その在り様を芯から愛しく思っているけれど、カカシの哀しい強さを思うとイルカの胸に激しい思いがこみあげてきて、嗚咽となり体から漏れ出てしまいそうだった。
それが嫌で嫌でたまらなくてイルカは強く唇を噛む。
イルカの様子に気付いたカカシはイルカをふんわりと抱きしめた。
「俺はもう大丈夫。もう全ては済んだこと。今はこんなにも俺を思ってくれているあなたがいるし幸せですよ。
ねぇイルカ、此処で一緒に食事を作ろうね。それでくだらない話をしながら二人で笑って食べるんだ」
「はい」
「晩御飯のあとは二人で布団をくっつけて寝る。この家の寝室は少し広すぎるからね」
「はい」
今から案内するよ、とカカシはイルカの手をひいて歩きだす。
屋敷の北側に面する寝室は、確かに広く15畳はあるだろう。
「あぁ、確かにこれでは布団をくっつけて敷かないと寂しいですね」
「そうなんだよ」と、カカシは柔らかく微笑んだ。
寝室を見た後はサクモの部屋、次に母の部屋、それから応接室、カカシの部屋。
それぞれの部屋に纏わる家族の思い出をカカシは慈しみながら話し、イルカは一言も聞き逃すまいと真剣に耳を傾けた。
最後に案内された部屋は廊下の突き当り、南側の部屋だった。
イルカを振り返ったカカシが、にっこりと微笑む。その様子から、この部屋がカカシにとって一番大切な場所なのだとイルカは悟った。
「ここね、大魔人の間っていうの」
「だい……まじんの、ま?」
「変な名前でしょ?
実は床の間に、父さんが古美術商から買い取った妙な壺が飾ってあるの。
丸くコロンとした壺で高さは40cmくらい。
正面から見ると真ん中に突起がひとつ。その突起を逆三角形の頂点として、2つの突起がある。
合計3つの突起が鼻と目のように見えるんだ。取っ手は2つあって、耳のように見える」
カカシは身振り手振りを交えて、壺の外観を説明した。
「父さんはこの壺を大魔人の壺って名付けたの。壺の顔がね、俺が好きだった絵本に出てくる大魔神に何となく似てたんだって。
だからこの部屋は大魔神の間」
そう言って、カカシは湿気を含んで波打った襖に手をかけた。
「父さんは大魔神の壺をとても大切にしていて、家にいるときは暇をみてはチャクラを込めながら壺を磨いてたの。『大魔神さま、大魔神さま。どうか家族をお守りください。この幸せをお守りください』って壺に話しかけながらね。そのうち母さんも同じことをやりはじめて。
今考えると、ふたりとも可笑しくて可愛いよね。母さんと父さんが死んでしまったあとも大魔神の壺に触れると2人のチャクラを感じることができた。
子どもの頃は辛くて部屋にも入れなかったけど、今は壺に触れて父や母を感じたい。イルカにも触れてみてほしい。あの壺は父さんと母さんの生きた証なんだ」
カカシが力を入れると、反りの出た襖はガタガタと煩い音をたてて戸袋に収まった。
そこでカカシの動きが止まった。しばらく待ってみてもカカシは動かなかった。イルカはさらに辛抱強く待ったが、カカシの肩が震えはじめたのを見て、不安げな声をあげた。
「カカシさん?」
何があったのかとカカシの肩越しに室内を覗いたイルカは、床の間を見て息をのんだ。
大きいもので子どもの掌ほど、小さいものになるとイルカの小指の爪ほどの素焼きの破片が無数に散らばっている。
「壺、割れちゃってる」
揺れるカカシの声に、イルカは何も言えなくなった。
何処からか入り込んだ小動物の仕業だろうか。
立ち尽くすカカシの横をすり抜けたイルカは、床の間の手前まで行くと膝をつき、かつて壺だったカケラをひとつ手にとった。
チャクラを感じない。神経を集中させて探っても結果は同じだった。イルカは悲しみに目を伏せた。
―――カカシさんのために、せめて壺としての形だけでも取り戻さないと。
「俺が直しますよ。こう見えて手先は器用なんです」
「でも、こんなにバラバラなのに」
「大丈夫ですよ、カカシさん。俺がちゃんと直しますから。絶対に、直しますから」
イルカは黙々とカケラを集めはじめた。
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