ソレイユの騎士
カカシがコノハ修道院に捨てられていた日は、夏の終わりのソレイユが頭を垂れ、実りの季節へと変わろうとする頃だった。
空は青く、雲は遠い。
黄色いソレイユの花畑が続く道を、カカシの両親は人知れず赤子を抱いて歩いて来たのだろうか。
今となっては誰にも分からなかった。
産まれて間もない赤子を捨てるなど、非道なことだと人は言うかも知れない。
でもカカシはそうは思わなかった。
本当に捨てる気なら、人里離れた山奥において逃げればいいことだから。一晩とたたぬうちに、獣の餌食となることだろう。
カカシの両親がそうしなかったのは、愛情ゆえのことだろうと、修道院長であるヒルゼンは常々語っていた。
コノハ修道院は修道者や修道士の生活の場であると同時に、親に捨てられた身寄りのない子供達を広く受け入れる孤児院としての役割も担っていた。
コノハ修道院で育った子供達は、成人を迎える頃には己の行く道を選ばなければならない。
修道士としてこの場に残るのか。あるいは修道院を出て行くのか。
成人を迎えるまでの期間、子供達は修道者として、修道士に混じり日々を過ごす。
幼かったカカシもまた修道者として日々を過ごしていた。
ある年の夏の初めに、カカシは黒曜石のように輝く黒い瞳を持つ幼子と出会った。
子供の名はイルカといい、両親が落石事故に巻き込まれて他界した為、コノハ修道院に預けられたのだ。
カカシが8歳、イルカが4歳の時の話だ。
イルカはコノハから遠い異国の地で生まれ育ったせいか、カカシの話す言語が理解出来ず、泣いてばかりいた。
言葉の分からないイルカに、言葉を教えたのはカカシだ。
共に学び、共に育つうちに、カカシにはある感情が生まれた。
それはコノハ修道院にいる者にとって、持ってはいけない感情だった。
カカシが思春期を迎え、精通を迎えた頃には、その感情はもうごまかしきれないものになっていた。
イルカが愛おしい。
それは兄弟のように育ったイルカへの家族愛よりももっと深く、欲に塗れた感情だった。
神に仕える者、神だけを愛する者が集う場で、神以外を愛し、密やかな肉欲を慰め合う者達もいた。
特にそれは年嵩の者が目下の者に強要することが多かったのだが、カカシは自分の感情がそんな者たちと同一だとは思いたくなかった。
イルカを愛するのならば、堂々と、誰憚ることなく愛を伝えたい。
その為にはコノハに、この修道院にいることは許されないのだと、いつの頃からか思うようになっていた。
カカシが17歳を迎えた頃、ある転機が訪れた。
落葉樹が色づき、山々に実りの秋が訪れた頃、冬眠を前にした小動物達を狙って、狐が姿を現すようになった。
狐は森の野ウサギやリスでは飽き足らず、修道院で飼育していた家畜にまで手を出すようになっていたので、カカシはヒルゼンから狐を狩る許可を得て、イルカと共に修道院の裏山に来ていた。
山の中は実りの宝庫で、カカシと共に歩くイルカは、栗やヤマブドウを見つけては喜び、木の洞に生えたキノコを採集してははしゃいでいた。
「ほらほらそんなによそ見してたら、また転ぶよ」
「だってこんなにいっぱい食べ物があるんだもの。持って帰ってもいいよね?みんな喜ぶよ」
そう言って笑うイルカはまだ13歳の子供で。
カカシを兄と慕うイルカに肉欲を抱いている自分は、なんて罪深い人間なんだと思うと、カカシの表情は陰りを見せた。
「どうしたの?何か心配な事でもあるの?」
無邪気なイルカに苦笑しながら「何でもないよ」と答えると、イルカは納得したのかまた笑顔を浮かべて、カカシの先を歩いた。
木々の間を抜け、獣道と呼ばれる道なき道を進むと、その先に開けた場所で、カカシは持ってきたバネ仕掛けの鉄の罠を仕掛けた。
「イルカ。下がっていて。間違って踏んだりしたら、大けがするよ」
カカシの言葉に黒髪の少年は、びくびくしながらカカシの背後に身を潜める。
「こんな罠にかかったら、狐はもう逃げられないね」
恐る恐る遠巻きに罠を眺めるイルカの頭をぽんぽんと撫でてやりながら、カカシは手早く餌となる鶏の死骸を仕掛けた。
一つ目の罠を仕掛け終わると、カカシはまたイルカを連れて獣道を進み、狐の足跡が残る場所に、二つ目の罠を仕掛けた。
最後の罠を仕掛けようとした時に、その異変は起こった。
山の中をけたたましくなく馬の悲鳴が聞こえたのだ。
「馬の悲鳴だ!」
イルカが口にするまでもなく、カカシは大急ぎで馬の悲鳴が聞こえた場所に向かって駆け出ていた。
その後をイルカが必死に追いかけてくる。
「イルカ。イルカは急がなくてもいいから。俺が見てくる」
「だって。カカシ兄ちゃん一人で行くなんて、危ないよ」
「大丈夫だ〜よ」
笑ってそう答えれば、イルカは泣き出しそうに顔を歪めて。
「な〜に?もしかしてイルカは恐いの?一人になるのが。迷子になると思ったの?」
「恐くないもん!カカシ兄ちゃんの馬鹿!意地悪!」
ぷりぷり怒り出した顔もまた可愛くて、カカシは思わずイルカをギュッと抱きしめる。
身動ぐイルカが「苦しいよ」と口にしたので、笑って解放すると、少し体温の高いイルカの手を握り、歩き出した。
「こうすれば恐くないでしょ?」
「うん」
事態は急を要しているかも知れないのに。
まだ子供だったカカシは、事の重大さも忘れて、イルカを連れて馬の鳴き声がした方に向かって歩き出した。
獣道を抜け、最初の罠を仕掛けた場所で、カカシは罠にかかり暴れる馬と、その側に倒れている青年を見つけた。
「どうしようカカシ兄ちゃん!大変だ!」
慌てて青年の側に駆け寄ろうとするイルカの腕を、カカシが掴み引き寄せる。
「ダメだ!近づいちゃ!下手したら馬に蹴り飛ばされる」
青年のすぐ側で暴れる馬は、痛みのために我を忘れているのか、何度も高い悲鳴を上げ、前足を挟む罠をはずそうと藻掻いていた。
「イルカ誰か呼んできて!急いで!」
カカシの言葉に弾かれたようにイルカが駆け出した。
カカシはその後ろ姿を見送りながら、慎重に倒れている青年に近づくと、馬に蹴り飛ばされないように、青年の身体を安全な場所まで引き摺った。
泥塗れの青年は、落馬した衝撃から、全身を強く打ったのか、意識がなかった。
輝く太陽のような金色の髪も土にまみれて、汚れていた。
青年の衣服は汚れていたけれど、カカシが見たこともないくらい上質な物で、その身分の高さがうかがえた。
まさか貴族なのか?そんな人が何故こんな所に。
「カカシ兄ちゃん!」
間もなくしてイルカが大人達を連れて戻って来た。
「お前達は下がってろ」
大人達の言葉にカカシはイルカの手を引くと、退く。
カカシ達の見ている前で、倒れていた金髪の青年は抱き起こされ、修道院に運ばれて行った。
暴れる馬は手が付けられず、近寄るのは危険だと判断されたのか、大人達は馬をその場に残し、カカシとイルカを促して歩き出した。
「カカシ兄ちゃん。あの馬どうなっちゃうの?」
優しいイルカは、苦しむ馬の姿に心痛めていたが、馬は結局助からなかった。
青年の意識が戻ったのは、それから一週間ほど経った頃だった。
修道院の窓からは、秋の収穫を終えたソレイユ畑が一面に広がっていた。
目を覚ました青年は、空の青を写し取ったような碧眼に、太陽のように輝く金髪をしていた。
笑った顔はまるで輝くソレイユそのもののようで、思わずカカシも見惚れてしまうような整った顔立ちをしていた。
「君が助けてくれたんだね」
ベッドからようやく起き上がった青年は、カカシを見るなり痛みで顔を顰めながらも微笑んで、「ありがとう」と口にした。
「礼を言われる事なんてしていません」
むしろ罠を仕掛けたのは俺だから。
カカシがそう口にして項垂れると、青年はチョイチョイと手招きして、思わずカカシが近寄ると、驚く間もなく頭を撫でられた。
「なっ」
何をするんだ?この人!
「君は正直で優しくていい子だね」
何を言うんだこの人!
「あ……貴方とは会ったばかりで、俺の何が分かるんですか?分かったような事言わないで下さい!」
「うん。そうだね。オレは何も知らない。でも君がいい子だって言うのは分かるよ」
静かな湖面のような瞳で見つめられると、足掻く自分が小さく思えて、カカシは俯いた。
「オレの名前はミナト。王都の近衛騎士をしている。君の名前は?」
ミナトは優しげな表情を浮かべて、カカシをじっと見据えていた。
「カカシ……」
「カカシ君か。よろしくね」
そう言って金髪の青年は笑った。
ミナトは王都から派遣された近衛騎士で、コノハの地の視察に赴いて来たらしい。
「王都から遠く離れたこの地には、中央の目も届きませんから。陛下も気になさっておいででした」
まだ起き上がることの出来ないミナトの病室を訪ねたヒルゼンに、「このような姿で司祭様にはご迷惑をおかけして」とミナトは謝っていたが、ヒルゼンは笑って「気になさるな」と口にした。
「その怪我では当分身動きも叶わぬでしょう。馬もなければ都にも戻れまい。しばらくここで休養されたらいかがかな?」
「司祭様にそうおっしゃって頂けると助かります」
ヒルゼンの言葉にミナトは頷いて、安心した顔を見せた。
一月ほどして、ようやくミナトは起き上がれるようになると、「お世話になりっぱなしも申し訳ないから」と言って、進んで修道院の仕事の手助けを申し出た。
「それでは」
と言ってヒルゼンがミナトに申しつけたのは、修道院で暮らす子供達に、剣を教えることだった。
修道士としてこの場に残る以外の選択肢を、子供達に与えてやりたいというヒルゼンの気持ちからだった。
翌日からカカシはイルカをはじめ他の子供達に混ざって、ミナトから剣の手解きを受けた。
「カカシ君。君は筋がいいね」
剣を振るカカシに、そう言ってミナトは目を見張った。
カカシはミナトの指導の甲斐もあって、見る間に剣の腕を上げていった。
それはヒルゼンですら驚くほどの上達ぶりだった。
ミナトはコノハ修道院に身を置いている間ずっと付きっきりで、カカシの鍛錬に付き合ってくれた。
その年の夏に行われたコノハ地方の武芸大会で、カカシはミナトの指導のおかげで、初出場ながら優勝するほど、腕前を上げていた。
「カカシ君。将来どうするか決まっているのかい?もし、君さえ良ければだけど……オレと一緒に王都に行く気はないか?」
ある時ミナトはこう言って、柔らかく微笑んで見せた。
その微笑みは、修道院の前に広がるソレイユ畑のように暖かな笑顔で、まるで日だまりのようだった。
「君ならきっと騎士になれる。王都へ行けば士官学校もあるし」
ミナトの言葉は大きくカカシの心を揺さぶった。
コノハ修道院を出て、歩む未来。
そんな想像も難しかった未来が今、開けるかも知れない。
イルカとの未来――
コノハ修道院にいては叶えることが出来ない、イルカと歩む未来。
ミナトに付いて行けば、この日だまりのような人の元でなら叶うかも知れない。
その思いは、カカシの中で爆発的に大きくなっていた。
しかし――その代償として、カカシはイルカとしばしの別れを決意しなければならなかった。
カカシが騎士として一人前になるまでは、イルカを迎えに来ることは出来まい。
イルカを一人この場に残して王都へ旅立つのは、身を切り裂くような辛い事だった。
このまま――安穏とした生活をこの場所で過ごし、修道士となって表向きは神への愛を誓いながら、その裏でイルカへ愛を囁く。そうすることも出来た。
二人だけの秘め事だと言って、イルカをこの手中に収めることだって出来たかも知れない。
でもイルカは――真っ直ぐ何者にも染まらない純粋な少年に、そんな事が出来るはずもなかった。
カカシの思いを知ったら、きっとイルカはカカシを嫌悪し、許さないだろう。
選択肢は一つしかなかった。
「カカシ兄ちゃん。本当に都に行っちゃうの?」
カカシがミナトと共にコノハ修道院を発つ前の晩、イルカはカカシの寝所を訪れると、泣きながら追い縋った。
「イヤだ!カカシ兄ちゃんと離ればなれになるなんて!」
漆黒の空を写し取ったような黒い瞳に、大粒の涙を浮かべて、イルカがカカシに抱きついた。
「イヤだ!何処にも行かないで!」
カカシはそんなイルカの頭を優しく撫でると、イルカの瞳をじっと見つめながら静かに己の決意を話して聞かせた。
「離れて暮らすのは、ほんの数年だから。俺は絶対騎士になって、イルカを迎えに来る。手紙だっていっぱい書くよ。だから寂しくなんかない」
「カカシ兄ちゃん……」
「イルカが大人になるまでには、きっと迎えに来るから。だから待っていて。俺を信じて、ずっと待っていて」
カカシの言葉に健気な少年は頷いて、「待っているから」と口にした。
カカシはイルカと指切りをすると、久しぶりに一つの寝所で二人手を繋いで眠りに落ちた。
翌朝、カカシがミナトと共に王都に出立するのを見送ったイルカは、もう泣かなかった。
「今まで大変お世話になりました」
カカシがヒルゼンに頭を下げると、老翁は目尻に涙を浮かべて、「お主の信じた道を行くが良い」と口にした。
「三代目。一つだけ約束して欲しいことがあります」
「なんじゃ」
「騎士になったら、俺が晴れて騎士になったら、イルカを迎えに戻ってくることを許して下さい。必ず迎えに来ると、約束したんです」
カカシの決意が堅いことを認めたのか、ヒルゼンは「うむ。達者でな」と呟くと、口を噤み真っ直ぐにカカシを見つめていた。
言葉にしなくても、伝わる思いがあった。
「行こうか。カカシ君」
カカシの先で馬を進ませるミナトに、カカシも頷いて馬に乗ると、それまでずっと黙っていたイルカが、大粒の涙を浮かべて、声を上げた。
「待ってるから!カカシ兄ちゃんのこと、ずっと待ってるから!!」
カカシは振り返ることも出来ずに、馬を走らせた。
いつまでもいつまでも手を振り続けるイルカの姿が目に浮かんで、声にならない叫びを堪えながら、一面の黄色いソレイユの花畑を抜けて行った。
空は遠く、黄色い花の絨毯は、地の果てまで続くよう。
この人の後に付いていけば、きっと未来は開けるはず。
カカシは自分の先を進む青年の姿に確信めいたものを感じていた。
それから数年後、カカシは王都の士官学校に入学することになる。
ソレイユのように輝いていた師は、士官学校入学後間もなく儚くなり、悲しみに暮れる間もなく、カカシは剣の腕を磨いていった。
全てはイルカのために。
イルカとの約束を果たすために。
血反吐を吐くような厳しい訓練にも耐えて、カカシは騎士の名を手に入れる。
ようやく手に入れた騎士の称号に、カカシはイルカを迎えにコノハへと戻る決意を固めるが、それは許されなかった。
カカシの名は、もうカカシ個人の物ではないくらい、広く世間に知れ渡っていたのだ。
宮廷騎士団に入団したカカシは、間もなくして団長にまで登りつめる。
宮廷貴族はたけ家の養子となり、皇女との婚姻まで決まっていたカカシが、全てを捨てイルカの元へ戻ったのは、ソレイユの花咲くコノハ修道院を出てから、8年後のことだった。
*Soleil(ソレイユ)和名向日葵(ヒマワリ)
*花言葉「私はあなただけを見つめる」「敬慕」「あこがれ」
【最果て倉庫のはやせ様】からのいただきものです。
中世ヨーロッパ好きのmogoの心を打ち抜いたはやおさんの『バラの香り』シリーズの前日談です。
修道院でのカカシとイルカの生活や心情が丁寧に描かれていて、はわわぁ……ってなります。
mogoはこれを読みながら、イギリスの小説で、修道士カドフェルシリーズを思い出し、思いっきり中世に浸りましたー。
カカイルで中世ヨーロッパ!!あー幸せ! はやおさんありがとうね。