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   その心に在るものは  

森の中を、気配だけが走り抜ける。
一つは血臭を纏いながら、はっきりと。
あとの二つは生き物というよりは、ほとんど風のように。

と、更にそれを追う気配が増える。
七つ、八つ、九つ。
ざざざっと擦れる枝葉の音が激しくなり、時折金属の打ち合う音が響き渡る。
そしてドサリ、ドサリと重たい物が地面に落ちる音。

「うぐっ……うあっ」

青年…いや、まだ少年の幼さを残した声が上がった。
絶望のこもった末期の動物のような。

その身体が横手から伸びてきた太い蔓に巻き取られ、敵の前から連れ去られる。
そして一条の銀光が迸ると、青年に対峙していた敵は既に絶命していた。



青年の木の葉の額宛と支給服のベストには、今の戦闘の物とは思えない乾いて黒ずんだ血が一面にこびりついている。
だがそこには、ベストの前面をざっくりと横切る新たな切り傷が増えていた。

「傷は浅いね。毒も塗られてなかったみたいだし、本格的な手当ての必要も無さそうだ」

黒髪に猫面の暗部が、青年の傷の応急手当てを済ませると立ち上がった。
そこへ黒く塗り潰された忍刀の血振りをし、背中に収めながら銀髪の男が近寄ってきた。

「なぜとどめを躊躇った。お前は補給線破壊班の最後の一人だろう。せっかく助かったのに、生き残りたくないのか」
「…先輩」

猫面が銀髪に呼び掛けるが、青年の反応は鈍い。未だ焦点の合わないまま、銀髪の男と黒髪の男の中間辺りの地面を見つめて呟いた。

「敵が……弟、と…同じくらいの子供で……俺、まだひとをころしたこと、なくて…」

二人はチラリと視線を交わし、銀髪の男が青年に背を向ける。

「テンゾウ、そいつを背負ってやれ。殿は俺がやる」

銀髪の男――カカシは、屠った敵忍達をテンゾウに木遁で森の開けた場所に集めさせ、一瞬の業火で燃やし尽くした。
それからテンゾウに背負われた同胞を振り返って、静かに言葉を続ける。

「躊躇うな。その一瞬の躊躇いが命を分けるんだ。生きて帰りたいなら、心に刃を持て。お前の柔らかい部分は忍には必要ない。――だから、殺せ」

テンゾウの背中で青年が見たのは、消え去る寸前の炎に照らされて紅く染まった銀髪と。
自分の命を救ってくれた、冷徹な忍の顔だった。

*
*
*

イルカがホースで中庭の花壇に水撒きをしていると、少し距離をおいた背後に躊躇いがちな気配が現れた。
しばらくなに食わぬ顔をして水を撒いていたが、その気配は立ち去る事もなく、かといって近付いても来ない。
ヒマワリの花壇に水を撒き終えるとイルカは一旦水を止め、ホースを持って移動しながらその気配に話しかけた。

「気配を断つのがずいぶん上手くなったなコユキ。かくれんぼは苦手だったのになぁ」
「…イルカ先生」

銀杏の木陰から一人の青年が進み出る。
青年というにはまだ少年の幼さを残した顔は、笑みを形作っているのに翳りを帯びていた。

「もう大きい任務にも出るようになったんだろ?お前もすっかり一人前の医療忍だな」

笑顔を向けたイルカに、コユキは肯定とも否定とも取れる曖昧な頷きを返した。
イルカは野菜の植わった小さな畑の方へ移動すると、ホースを持った手をコユキの方に突き出した。

「ちょっとこれ持っててくれよ。水を撒く前に雑草を抜いちまいたいんだ」
「…相変わらず人使いが荒いなぁ」

コユキは今度は本物の小さな笑みを浮かべると、小走りにやってきて畑の中にしゃがみこんだ。

「手伝ってやるよ。二人でやった方が早いだろ」
「おっ、そう言ってくれるのを待ってたんだよ。最近、長時間かがむと腰が痛くてな」
「先生おっさんだもんな」
「おっさんって言うな。せめておっさん臭いって言え」
「ハハッ、それおっさん臭い方がイヤじゃないか?」

声を上げてコユキが笑うと、イルカは「そうかぁ?」とブツブツ言いながらホースを地面に置き、隣にしゃがみこんだ。
そしてしばらく二人で黙々と雑草を抜いていく。
畑の半分以上の雑草が抜かれた頃、コユキが口を開いた。

「…さっきさ、大きい任務に出るようになったって言ってたろ?俺さ、カラクリ峠の盗賊の討伐任務に出たんだ。はたけ上忍が部隊長の」
「あぁ」

知っている。
その任務の割り振りをしたのはイルカだったから。
盗賊の討伐といってもかなり大がかりな物で、元上忍や暗部が数名混じった抜け忍が主体の、各国を跨いだ組織的な盗賊の討伐が木の葉に依頼されたのだ。
それは先日無事完了して、カカシも帰還したばかりだった。
コユキを医療忍として編成に組み入れたのは、中忍として順調に経験を積んでいく彼に、そろそろ大きな部隊での任務を経験させたかったからだ。
報告書を見たところ殉職者や重傷者もなく、カカシがしっかりと部隊を統率して任務を滞りなく完遂した事をイルカは確認していた。
コユキの雑草を抜くペースがやや遅くなる。

「その時にさ、俺、現場から怪我人を回収するチームにいたんだけど、その帰りに敵襲に遭ったんだよね。それで…反撃しようとしたんだけど……とっさに手が、動かなくて…」

コユキの声はだんだんと小さくなり、その声は土に吸い込まれていくようだった。
引き抜こうとした雑草を掴んだまま、コユキの話が続く。

…そいつが…敵のくの一が、似てたんだ。
いや、全然似てなかったんだけど、一瞬、茶色いふわふわの髪が……彼女に見えて。
ほんの一瞬だけ、手が動かなかった。もうダメだって思った。
でもその時にはたけ部隊長が助けてくれたんだ。
おかげで俺は…俺も怪我人も助かった。
助かったって、その時は思ったんだけど。

…それではたけ部隊長が撤収の時に声をかけてくれてさ。
「躊躇うな。その一瞬の躊躇いが命を分けるんだ。里に帰ってお前の大切な人に会いたいなら、心に刃を持て。お前の柔らかい部分は、今は隠しておけ」
……って。
俺さ、その時からずっと考えてるんだ。…考えちゃうんだよ。
俺が助かった代わりに、敵が……相手が死んだ。
この差って何だろう。強さ?運?
相手だって彼氏がいて、家族がいて、あの人の帰りを待つ人がいたかもしれない。
俺は医療忍だ。仲間を助けるのが使命なんだ。
だけどさ、俺たちが敵だって言ってる相手もおんなじだろ?
そう思うと、命を分けられてこっち側に立っても…助かったって喜んでいいのか分かんないんだ。
…はたけ部隊長の言う心の刃って何なんだよ。それってどこに向ければいいの?それがあれば悩まなくて済むの?
柔らかい部分を隠せって、このままじゃムリだよ…!
これじゃたぶん、次にあっち側に立つのは…
でも俺は、俺はまだ死にたくないんだよ、イルカ先生……


青年へ成りかけのがっしりとしたコユキの背中が、今はアカデミーの子供のように薄く頼りなく見える。
イルカは膝を抱え、その腕の中に顔を埋めてしまったコユキを、厳しい顔つきで見つめた。初めて自分の、そして相手の死と…死神と目の前で顔を付き合わせてしまったコユキを。

これは中忍になり、命をやり取りするような任務についた忍の誰もが通る道だった。
忍として割り切れる者、見て見ぬふりをする者、重さに耐えかねて忍を辞める者と、その反応は様々だ。
少なくとも中忍試験に推薦される時点で忍の資質はあるものと判断されるが、実際は経験してみなくては分からない。
そしてコユキは医療忍という人命に重きをおいた職種ゆえに命の重さに迷い、忍としての岐路にしゃがみこんでいた。

イルカはしばらくコユキを見つめていたが、ふと表情を和らげると力強く答えた。

「…そうだなぁ、先生にも未だに分からん!」

コユキはハッと顔を上げ、イルカと会ってから初めて目を合わせた。

「人の命を奪う事が正しいと言ったら、それは嘘になる。でもカカ…はたけ上忍が言う事も正しい。道徳心と任務遂行の責任感と死の恐怖にがんじがらめになるのは分かるよ。そこだけはよぉく分かる。だがなコユキ…命を扱うってのはな、ちょっと悩んで軽々に答が出るもんじゃないんだ」

イルカはコユキの迷いに揺れる眼をじっと見据えた。

「…だからこそ、お前には答を急いでほしくないんだ。これ以上は折れると判断したら、そこで退くのも決して間違いじゃないぞ。…ただな。お前がそうやって悩みながら出した答は、必ずお前の芯となってお前を支える」
「俺の……芯」

コユキがイルカを通り越して、何かを見付けたように呟く。

「そう、芯だ。はたけ上忍の仰る心の刃は、誰かを攻撃するもんじゃなくて、お前の心の芯だと先生は思うぞ。その芯を刃のように鋭く、しっかりとお前のど真ん中にぶっ刺しておけって事じゃないかな。その上でコユキの優しい心…柔らかい部分は隠しておけよ、それが忍として、人としてお前が生きていく為には必要だからって事だったんじゃないのか。はたけ上忍は、お前のその優しさを守る為に仰ってくれたんだと、先生は思うよ」

そしてイルカは土の付いた手で、コユキの頭をぐしゃぐしゃっとかき混ぜた。

「何かあんまり役に立たないアドバイスでゴメンな」

イルカに頭を揺らされるがままになっていたコユキの、目の焦点が合う。
――目の前の『イルカ先生』も一人の忍だという事に、今初めて気付いたかのように。
そして同じような苦悩を感じたはずのイルカの笑顔には、それでも…それだからこそ、慈愛が満ちている事に。

「…先生、泥まみれの手で頭を撫でんなよ。俺のカッコいい髪型が台無しだろ」
「ハハハッ、大丈夫だコユキ!お前は泥んこでも十分カッコいいぞ」
「そーだな、もっさいイルカ先生の十倍はカッコいいよな」
「あっ、お前、人が気にしてることを!」
「そういえばこれから彼女と会うんだった。全部手伝えなくて悪いけどさ、またな先生!」

コユキはサッと立ち上がると、頭を振って土を払い落とした。
「イルカ先生、ありがとなー!」と手を振って駆けていくコユキの笑顔には、もう翳りはほとんど無かった。

これからもコユキは悩み、立ち止まる事も幾度となくあるだろう。
だが心の刃の礎は、イルカには確かに見えた。それを何度も何度も叩き上げ、強靭な刃を造り上げていくのは、この先コユキが己の力でやるべき事だ。
イルカは立ち上がって、夕陽に照らされたコユキの後ろ姿をいつまでも見送っていた。




アパートに帰ったイルカが夕飯の支度をしていると、程なくしてカカシも帰ってきた。

「おかえりなさい!…あ、あの子、コユキが俺んとこに来ましたよ」
「ん。…そ」

様子はどうだったかとも、どういう話をしたのかともカカシは問わない。ただ額宛と口布に隠された顔が、いくらか緩んで頷いただけだ。
だがそれがカカシの『イルカ先生』への絶対的な信頼に思えて、イルカは嬉しく思う。
カカシは隣に立って手を洗うと、イルカが洗ったレタスの葉を一口大にちぎり出した。そしてコユキの詳細を尋ねる代わりに、自分の事をボソボソと語り出す。

「…俺ね。昔ならあんな事は言わなかったなぁと思って」

イルカは顔を上げてカカシを見た。

「昔ね、似たようなことがあったんだ。コユキのケースと。…その子もやっぱり人の命を奪った経験がなくてね、危うく殺られるところだった。それで俺、その子に言ったの。敵を殺す事を躊躇うな、お前のそういう心の柔らかい部分は、忍には必要ないから殺せ、って」

イルカは僅かに目を見開いた。
コユキの言っていたカカシの言葉と少し違う。
…少しだが、根本的な点が決定的に違っている。
カカシはそんなイルカを見ると、うん、と頷いた。

「ホントにそう思ってたんだよ、当時はね。…でもイルカ先生と出会って、先生を見てて、先生の言葉を聞いてて俺、学んだの。心の柔らかい部分は、なにも殺す必要はないんだなぁって。敵に絶対見せないように、深ぁい所に隠しておいてもいいんだって。心に刃と柔らかい部分の両方を持てたら、それはきっと自分の芯となる。忍の芯となって、人としての核になる。そうすれば…」

カカシは優しく微笑みながらイルカのごつごつとした、だが柔らかく温かい手を握る。

「それを持ってることが最大の武器となり、最強の力となる。…だからコユキに言ったのは俺の言葉だけど、あなたの言葉でもあるんだよ、イルカ先生」

イルカは堪らずくしゃりと顔を歪めた。その頬にぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
自分の忍としての在り方を、カカシが理解していてくれた事に。
それを自分の物にもして、二人の言葉と言ってくれた事に。
…そしてかつてのカカシが、柔らかい部分を殺さざるを得ない環境にいた事にも。
カカシはイルカの溢れ出た想いの滴を指先でそっと受けると、イルカの肩を抱き寄せた。

「なんかさ、こんな風に俺たちの言葉が誰かの糧になるってすごい事だね。俺は何も残せないと思ってたけど、ちゃんと残せるんだね」
「カカシさんは、ちゃんと残してます!」

イルカはカカシの肩に埋めてた顔を勢いよく起こした。

「うん、でもそれは忍としての生き方や功績でしょ。俺は自分が人としての在り方を、誰かに説けるなんて思ってなかったの。それを伝えたいって思うようになったのは、イルカ先生…あなたのおかげだよ」
「そうですよ、あなただって先生なんだから、これから伝えて欲しい事はまだまだ沢山ありますよ!あなたは忍としても人としても、上に立って教えを広めるべき優秀な人なんです!」
「だから俺が優秀なのはイルカ先生のおかげでしょ。俺の先生は優秀で魅力的で、万人に愛される罪な人なんですよ〜」
「……何ですかそれ」

イルカが呆れたようにカカシを見ると、カカシがまだ涙の残る頬をべろりと舐めた。
ぎゃっとイルカが声を上げる。

「色気のない声だね〜。イルカせんせに色気の糧を与えちゃおっかな」
「色気の糧よりまずは力の糧です!さっさとメシ作って食いますよ!」
「はぁ〜い」

照れ隠しにプンスカしながら夕飯の支度に戻ったイルカを横目に、カカシはこっそりとほくそ笑んだ。
色気の糧を拒否はされなかったのだから、イルカの言う通り、まずは力の糧だ。
そそくさとイルカの隣に並ぶと再び支度を手伝い始める。その頭の中からは既に、岐路に立って悩んでいた若き医療忍の事は消え去っていた。
イルカ先生の教え子だという彼が、帰還後イルカの元に行くだろうとは予測の内だった。そして帰宅時のイルカの顔を見れば、それが上手くいった事は一目で分かった。
その時点でカカシの懸案事項からコユキの名は消えたのだ。
『イルカ先生』ならきっと彼の悩みにに寄り添い、上手に導いてくれただろうと信じているから。

「今日のごはんはなぁに?」
「ちょっと旬は過ぎたけど、カツオのたたきと茄子の味噌汁と冷しゃぶサラダですよ」
「おっ、いいね〜」

カカシにとって、力の糧はイルカの作ったごはん。
心の刃は火の意志。
そして、柔らかい部分は……

「最近暑いから、夏バテしないようしっかり食べて下さいね!」

隣に立つカカシの顔を覗きこんで、イルカが笑顔を向けた。



【完】


【如月の如月ゆう本゜様】からのいただきものです。
本当に難しい問題には安易に答えを出してはいけなくて、辛くてもずっと心に持ち続けて考え続けることが大事なんだって。私もほんとそう思います。安易なハッピーエンドに流れない如月さんのシリアスがとても好きです。
カカシとイルカの強固な心の絆もたまりませんでした。
如月ゆう本゜。ただの変態じゃぁありません!!!!

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