ずぼら狂想曲
放課後の職員室は、連休を控えた金曜日ということもあり、大半の教師が帰宅して閑散としていた。部屋の奥まで差し込んでくる温かな陽の光に眠気を誘われたイルカは、濃いめの珈琲を啜りながらぼんやりと今月の出勤表を見つめている。
「明日から三連休っつても、なーんもすることないなぁ。溜めていた家事でもするか」
イルカは自宅の惨状を頭に思い描いた。
和室の片隅には小さな蜘蛛が巣をはっているし、電灯の笠にはごっそり埃がたまっている。
かろうじて床に掃除機はかけているものの、もうずいぶんと長い間雑巾がけをしていないから、なんとなく気持ちが悪い。
朝晩の冷え込みが厳しくなってきているのに、衣替えもまだ済んでいない。
更には、くたびれた靴下や下着を身に着けているありさまだ。
買い物にいくのも億劫で、洗濯ものを取り入れるたびに、まだいける、なんとか着れるを繰り返してきた結果がこれだ。
「俺も大概ズボラだよなぁ」
ポソリとそう呟いたとき、職員室のドアがガラリと音をたてた。
同僚のイワシがひどく慌てた様子で駆けこんでくる。
「おい、イルカ！ お前にお客さんだぞ。応接室にお通ししたから、すぐに行けよ」
「応接室って、身分の高い人なのか？」
「おう！ あの、はたけカカシ上忍だぞ！ ほら、はやく準備しろよ」
「えっ、カカシ上忍！？」
はたけカカシといえば、忍の世界に生きるもので知らない者はいない、とまで言われる超有名な忍者で、人気も絶大だ。
カカシの来校を知った職員室は、あまり人がいないにも関わらず、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「なんでもナルトとサスケの指導についてお前に相談したいんだとよ」
「えっ！？ カカシ上忍があいつらの担当に！？」
「そんなの知らねえよ。でも、お前を呼び出すってことは、きっとそうなんだろうな。ほら、急げ急げ。あ、ニボシちゃーん！！」
イルカは慌てて、机の引き出しをあけ、ナルトとサスケの指導ファイルを探しはじめる。
伝説の忍者はたけカカシと会うのは初めてで、イルカの足は興奮と緊張に震えていた。
「はいーーー」
「ニボシちゃん、応接室にお茶お願い！」
「えぇえええええ！ 無理、無理ぃいい！ 100均のニンソーで買ってきた茶葉しかありません！ とてもカカシ上忍にお出しできるような代物ではっ」
「じゃぁサシミ、お前、瞬身でお茶屋さんに行ってこい！ 店で一番上等な玉露買ってくるんだぞ！」
「了解！」
シュンとサシミが消えた。
「私はお湯を沸かしてきます。どっかにある茶托も発掘しないと……！」
準備を整え終わったイルカが、神妙な顔で席から立ち上がった。
ナルトとサスケは、繊細な心をもつが故に、細かに気を配り大事に育ててやらねばいけない子だ。
加えて彼等の潜在能力には目を見張るものがある。
優秀な能力をもつ、ということは、忍びの世界において、危険と隣り合わせということでもある。
あの子たちが光の道を歩けるように導くのが、教師の務めだと思ってきた。
だからこそ、カカシが就任前に彼等の指導について心を砕いてくれているのは、とてもありがたかった。
大切な子どもたちを、しっかりと、引き継ぎたい。
「うみのイルカ、行ってまいります」
まるで任務に発つときのように精悍な顔つきでイルカが歩き出すと、彼の背後でイワシとニボシの悲痛な声があがった。
「「ちょっとまったぁっ！」」
「え、なんです！？」
僅かな苛立ちとともに振り返ったイルカは、皆の視線が自分の足元に集まっていることに気付く。
見下ろすと、かつては純白だった上靴は薄汚れ、それはそれは酷い有様だった。
「オマエ、そんな汚い靴でカカシ上忍の前に出るつもりか！」
「たしかにっ、でも俺、新しい上靴なんて持ってないぞ」
「よし、俺のを貸してやろう。お前のよりはマシだろう」
上靴を脱ぎはじめたイルカとイワシに、ニボシが声をかける。
「ちょっとまって、サシミ先生のサンダルを借りたら？ ナースシューズみたいな黒いやつ。
イルカ先生、丁度黒の靴下を履いているし、中途半端に白いイワシ先輩の上靴を履くよりフォーマルな感じになるんじゃない？」
「「それだ――！！！」」
サシミの机の下に置かれたサンダルを、ニボシが持ってきた。
イルカは早速サンダルに履き替える。
爪先が空いているデザインのサンダルだったが、黒の靴下と一体化して、遠目には黒い靴に見える。
「やった！ やったぞ。よし、イルカ。行ってこいっ！！」
「ああ。行ってくる……！」
イルカは意気揚々と大きな一歩を踏み出した。
と、そのとき。
ビリッ……
「えっ！！」
「ひぃえぇえええ！」
「く、靴下が、やぶれたぁああああああああ！！！！」
度重なる洗濯に寿命をすりへらしてきたイルカの靴下が、ついに臨終のときを迎えたのであった。
破れた穴からはイルカの右足の親指が飛び出している。
肌色のソレは、もうとんでもなく目立っている。
「あぁあああ！ もうおしまいだぁあああああ」
頭を抱えるイワシ。
しかし、ニボシはあきらめない。
「私、裁縫セット持ってます！」
「ニボシ。ありがとう。でもそれでは時間がかかりすぎる。これ以上はたけ上忍をお待たせするわけにはいかない。俺は忍だ。恥を忍んでこのまま、はたけ上忍の元にいくよ！」
「だめだ、だめだイルカ。お前の問題じゃない、カカシ上忍に失礼だろうがっ！」
「だったらイワシ先輩、私いまから靴屋に行ってきます……！」
「それもダメだっ。あまりに時間がかかりすぎるっ」
「くっそぉ、どうしたらいいんだ……！」
イルカは拳を机に叩きつけ、呻いた。
すべては己のズボラが招いたことだった。こんなことになるなんて……。
後悔が怒涛のように押し寄せ、イルカをのみこもうとしていた。
――落ち着け、イルカ。今、後悔してもしょうがないじゃないか。考えろ、考えるんだ。
俺は、いつも生徒たちに言ってるじゃないか。忍者は裏の裏を読めって……！！
「そうかっ！」
イルカはガバリと顔をあげた。
「イワシ、ニボシ、職員室のサインペンを全て集めてくれ！」
「なに！？ それで、お前どうするつもりだ」
「いいから早くっ！！」
数秒のうちに、イルカの机にサインペンが10本あまり並べられた。
イルカはその中で一番太いペンを取り、キャップを開ける。
「いいか。これから俺の親指を、黒く、塗る！！！」
「えっ」
「まて、それは油性だろ！？ そんなことをしたらお前の親指は……」
「ああ。一週間は黒いままだろう」
「そんな……体術の授業のときに、生徒たちの笑いものになっちゃうわ」
「それがどうした！ 今できる最善のことをする。それが忍というものだ！」
「イルカ……イルカっ！ お前って奴はッ」
号泣する二人にイルカはサインペンを手渡した。
「さあ、お前たちも手伝ってくれ……！」
かくしてイルカの親指は黒く塗られ、イルカはなんとか身なりを整えることが出来たのである。
*
「はたけ上忍、お待たせして申し訳ありませんでした。うみのイルカ、ただいま参りました」
緊張に震える声でことわりを入れてから応接室の扉を開くと、腹を抱えて笑いを堪える銀髪の男がいた。
上忍の妙な様子にイルカは戸惑う。
「どうかされましたか？ はたけ上忍」
「う、うん。どうって何も。えっと俺はね、ふつうの忍より聴力も優れてるの」
「え……まさか」
「うん。職員室での貴方達の会話、全部聞こえてたのね」
イルカは顔面を蒼白にして、腰を直角にまげた。
「カカシ上忍、失礼しましたっ！！」
「イルカ先生、あやまんないでよ。お辞儀やめて、ちゃんと顔見せてよ。
俺、今まで生きてきたなかでさ、こんなに笑ったことってなかったから楽しくて。だから、イルカ先生と知り合えて嬉しいと思ってる」
おずおずと顔をあげたイルカの眼の前に、とても優しい目をした美丈夫がいた。
――あぁ、この人なら大丈夫だ。安心して子どもたちを預けられる
イルカの胸に安堵が広がった。
それから二人は沢山の話をした。本当に沢山沢山話をした。
一緒に笑って一緒に泣いて。
何年も親しい友人として時間を重ねるうちに、イルカの心に恋が芽生えた。
「カカシ先生、俺は先生のことが、好きになってしまいました」
ある夜、酒の勢いを借りて、イルカがカカシに想いを告げた。
カカシはびっくりした顔で、けれども幸せそうな目でイルカを見返す。
「あのね、俺はね、職員室での会話を聞いたときから、イルカ先生のことが好きでしたよ。真面目なのに面白い先生と一緒に生きていくことが出来たらなあって、ずっと思っていました」
靴下の穴が繋いだ二人の心。
想いの通じあった二人は、それはそれは幸せに暮らしましたとさ。
あぁ、ズボラって素晴らしい！
