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   柘榴

prologos

かつて、神々の苛烈な争いがあった。
大戦の名は、ティタノマキア。

クロノスを頂点とするティターン神族と、ゼウス=アスマを頂点とするオリュンポス神族の、世界の覇権をめぐる戦いである。
戦いはゼウス=アスマ、ポセイドン=ゲンマ、ハデス=カカシの活躍により、オリュンポス神族が勝利を収めた。

しかし待ち望んだ平和はすぐには訪れなかった。
天、海、冥の支配をめぐりアスマとゲンマの間に確執が生じたのである。
それを治めたのは、幾多の名を持つ神カカシ。
誰よりも強い神は、又、誰よりも平和を望む優しき神でもあった。
よって、カカシは光射さぬ冥府に自ら降りることを条件に、天の支配をアスマに、海の支配をゲンマに委ねたのである。

こうして神々の争いは回避された。
それから死すべき人間にとっては気の遠くなるような年月が流れた。


*


オリュンポス山の頂、アスマの居所。

松明の火に煌々と照らされた空間に、アスマとカカシの姿があった。

「カカシ。大恩ある兄者が俺に願い事をしてくれるのは嬉しい。兄者の望みとあらば何なりと叶えたい」
「それはありがたいね。わざわざ冥府から出向いたかいがあったよ。俺はね、お前の息子のイルカを妻にしたいの」

長兄として長く知るカカシが、初めて口にした望み。
カカシがどれほどの想いでイルカを欲しているのか、それだけで分かるというものだ。

しかし、アスマは眉を眇めた。
いくら敬愛する兄の望みでも、死者の国に可愛い息子を嫁がせるのは躊躇われる。
そんなことになればイルカの母、クレナイも黙ってはいないだろう。
逡巡するアスマに気付いたカカシは、すぐさま言葉の刃を放った。

「赦してくれないのなら、力ずくで奪うまでだ」

ゾワリ、とアスマの肌が恐怖に泡立つ。
ひたとこちらを睨めつけるカカシの禍々しい赤の眼が、強烈な殺気を乗せていた。
最高神とされるアスマの実力をもってしても、カカシを抑えることは叶わない。
どのみちイルカを奪われてしまうのなら、カカシとの関係をここで悪化させたくはない。
そう考えたアスマは、苦悶の声でイルカの居場所を告げた。

「あれは今、ニューサにいるはずだ」




青く高い空。
切り立った山々に囲まれた草原。

金色に輝くミモザの下で、ニュンファイ(=精霊たち)が柔らかな下草を踏み、陽気な歌に合わせて踊っている。
手を取り合い輪になって、サンダルから覘く白い踝を優雅に空に泳がせる。
透き通った歌声を、アウロイの軽やかな響きを、風が遠くへと連れ去ってゆく。

踊るニュンファイの中心で、黒く輝く髪を一本に括った青年が、野に咲く可憐な花々を手折っていた。
顔つきは穏やかで瞳には知性の光が宿っている。
鼻梁を左右にまたぐ傷以外には、特に個性のない顔立ちをしていたが、癒しと赦しに満ちたその顔を一度見たものは、彼の存在を心の深くにに刻み込む。

「大きくなったね、イルカ……そして、綺麗になった」

踊りの輪からそう遠くない岩陰に身を隠したカカシは、イルカを食い入るように見つめていた。
まだイルカの背がカカシの胸ほどであった頃、カカシは久方ぶりに訪れた地上で、ニュンファイと草原を駆けるイルカを見つけたのだ。
その瞬間、カカシはイルカに恋をした。
突如沸き起こった強烈な想いの前では、理屈など無意味に等しかった。
太陽が空に昇るように、月が地上を照らすように、カカシの魂がイルカを求めたのだ。

しかし、その想いが真実であったからこそ、カカシはイルカを諦めた。
光の下で清らかに笑うイルカは、冥府でしか生きられぬ己が決して望んではいけない相手なのだと強く自らを戒めた。心に浮かぶイルカを夢の中で抱きしめ、愛し、気の遠くなる年月をただひたすらに耐え忍んできた。
イルカを地上に留めるため、カカシは己の心を何万回も殺してきたのだ。
この先、何万回でも殺すはずだった。
イルカの為なら、殺せるはずだった。

けれど、限界まで追いつめられたカカシが統治する冥界に、綻びが出てしまう。
冥界の統治をしくじれば、この世は死者で溢れかえる。それは世界の終りともいえた。
冥府を治める神として、決して避けねばならぬことだ。

こうして、世界のためにカカシはイルカを求めた。

「ごめんねイルカ。あなたを好きになって。あなたを妻に望んで、ごめん」

カカシは右の手のひらを天に向け、イルカに向けて差し出す。
すると手のひらの中心に眩いばかりの光が生じた。
光に気付いたイルカやニュンファイが、驚いた顔で振り返り、そこに漆黒のヒマティオンに身を包んだ銀の美神を認める。

「ひっ……! 冥王様っ」

ざわめくニュンファイには一瞥もくれず、カカシは彼女らの背に守られるイルカをだけを見ている。
カカシの掌上の光から金剛石の輝きをもつ一輪の水仙が現れ出た。
それを恭しく捧げ持ったカカシが大地に跪く。

「大神アスマと、豊穣の女神クレナイの子、イルカよ。この水仙を手に取り、我が愛を受け入れ、我が妻となれ」

ニンフェが金切声をあげた。

「イルカ様! この方は冥府の王です。冥府に嫁げば、二度と日の光を見ることは叶いません。
山の清々しい空気も、美しい花も、優しい鳥の囀りも、何もかもをあなた様は失ってしまうのです。
どうか、お逃げください!」

彼女はイルカの手を取り駆け出す。
イルカは混乱の中で、激しい恐怖を感じていた。

ニュンファイの叫びが大気を震わす。

「カカシ様、どうかお赦しを! イルカ様は地上でこそ輝く星なのです」
「アスマ様やクレナイ様がお知りになれば、なんとおっしゃるでしょう。どうか、どうかお諦めくださいませ!」
「カカシ様!! カカシ様! イルカ様を愛していらっしゃるならば、お考え直しください!!」
「嗚呼、アスマ様! 紅様!! イルカ様をお助けください!!」

イルカを守りたい一心で、命も顧みず神に立ち向かうニュンファイは、カカシから髪の毛一筋ほどの関心を奪うことも出来ない。
その視線もその心も、カカシの全てがイルカに捧げられている。

「イルカ、おいで! 俺の世界に」

その言葉と同時に、イルカの足元の大地が割れ、イルカを呑みこんだ。

「あぁっ! イルカ様っ」
「おいたわしや! 必ず助けに参りますから、どうか、今しばらくのご辛抱を」
「イルカ様、冥界の食物を、一切口にしてはなりませぬ。口にすれば冥界でしか生きられぬ身体になってしまうのです!」

「―――!!」

声なき叫びを発し、目を見開き、慣れ親しんだ世界にむけ手を伸ばしながら、イルカは冥府へと落ちていった。






「イルカ!」

恋い焦がれ幾度となく夢見た身体を、カカシはその手に抱き留めた。
腕の中のイルカには温もりがあった。心地よい重みも、爽やかな汗の匂いもある。
愛するイルカの、恐怖に細かく震える様子も、哀願を湛えた眼も、激しい鼓動に上下する胸も、全てが麗しく貴く思え、強烈な感動が心に沸き上がる。

「イルカ……」

気の遠くなる時間を、気が振れそうなほどの激情で愛したイルカを目の前に、カカシの全身から狂気にも似た愉悦が立ちのぼっており、それがイルカを怯えさせた。
闇のなかで淡い光を放つ水仙を、カカシはイルカの髪に挿した。

「綺麗だよ、イルカ。俺は冥府の王カカシ。貴方の夫です」
「あなたとの結婚なんて、父様が許さない!」
「赦しは、アスマからもらってきた。あなたはもう俺のものだよ」
「うそだ。父様が、そんなッ」

カカシの腕から逃れようと、イルカが身を捩る。
その抵抗をやすやすと封じ込め、カカシがイルカの頬に唇を寄せる。

「嘘だと思ってもいい。でも何百年たっても、何千年たっても、誰もイルカを迎えにこないよ。もうあなたには俺しかいないの」

頬に軽くキスをしたあと、カカシはイルカの唇を奪った。
イルカは両手で強くカカシの身体を押し返し、その腕からなおも逃れようとする。

「ッ……!! やめっ。いやだぁっ」
「お願いだから、そんな哀しいことを言わないで。俺のすべてをあげるから、あなたの心の片隅を俺にください。ほんの少しでいいんです。どうか俺を愛して」

カカシは再び唇をイルカの頬に寄せた。

「やめてください! 今すぐ俺を地上に返してください」

恐怖に歯の音も合わぬくらい震えているというのに、気丈にも自らの望みをカカシに伝えたイルカの勇気は、カカシの頬をわずかばかり緩めたにすぎなかった。

「勇ましいね。そんなところも愛しているよ。だけど、その可愛らしい唇に激しい言葉は似合わない。あなたに似合うのは、そう」

カカシはイルカの身体を覆う純白のヒマティオンに手をかけ、力任せに奪い去る。

「何をっ!」

カカシの目前にイルカの裸身が晒される。

少年から男へと変貌を遂げる途中の身体はしなやかな筋肉に覆われ、女のような儚さと男のような強さの双方を合わせもっている。
よく日に焼けた健康的な肌は、衣類に秘された箇所では驚くほど白く、透き通るような美しさがあった。

薄桃色の胸の頂に、何の前触れもなくカカシはむしゃぶりついた。
口腔に迎え入れるとすぐに勃ちあがってきた乳首を、カカシは舌先で執拗に舐る。

「はぁっ……あっ……あっ」
「ほら。あなたの唇には甘い喘ぎのほうがずっと似合う。ね?」

五感で感じるイルカの全てがカカシの烈情を煽る。肉欲が理性を喰いはじめる。
恋い焦がれたイルカの嬌声に、カカシの欲望は臨界に近い。
しかし、カカシは絶対に理性の手綱を手放さない。

「冥府には、あなたが愛した太陽も風も花も木も何もない。俺があなたに贈ることができるのは、愛と快楽だけだから、どうか受け取って」

黒の下生えに埋もれた慎ましいイルカのペニスを、カカシが恭しく掴んだ。

「やだ、そんなとこっ、触るなっ!」

自慰も満足にしたこともない清らかなペニスを、カカシの白い指先が性器へと変えていく。

「あっ……はうっ、や……だ」

イルカの下肢に、未だ感じたことのない熱と得もいわれる快楽が生じている。

「なに、これっ……怖いっ」
「大丈夫だよ。すぐに天国をみせてあげるから」
「あぁっ! やぁあ……」

カカシは自らが与える刺激に敏感に反応するイルカの身体を愛しげに眺めながら、責めたてる指の動きを激しくしていく。もはやイルカのペニスは固く張り詰め、先走りに濡れて、解放のときを待ちわびていた。

「イって?」

そう言うとカカシはイルカのペニスを口に含み、激しく吸い上げた。
と、同時にふぐりを揉みこみ射精を促す。
その卓越した性技を前に、経験の乏しいイルカはひとたまりもなかった。

「あっ、あ”あ”あ”っ!!」

甲高い叫び声とともに、イルカは大量のスペルマをカカシの咥内に吐き出した。

こうしてイルカは、冥府の奥深くハデスの神殿に妻として迎えられた。
カカシはそれはそれは大切にイルカを扱い、妻のために心を砕いた。
イルカの心が安らかであるように、と鍛冶の神に宝玉で出来た森をつくらせ、そこに闇の生物を遊ばせてみたり、冥府に仕える巫女の、殊更に心根のよい乙女をイルカの友にと与えもした。
朝となく夕となく贈り物を携えて通いつめ、優しい言葉をかけ続けた。

しかし、カカシがどれほど尽くしても、どれほど愛しても、イルカの心は頑なで、笑顔すら見せてはくれない。
それどころか、いつか地上に戻れると信じて、冥府の食べ物に一切手を付けないのだ。
神故に死ぬことはないが、カカシが焦がれた眩いばかりの命の輝きが日に日に色褪せていく。
イルカが地上を想い嘆き悲しみ、眠れぬ日々が続くと、カカシはイルカの身体に手を伸ばした。

「イルカ、俺が眠らせてあげるね」

尻でいざり、逃げようとするイルカを哀しい瞳で見つめながらも、カカシはイルカを迷いなく腕の中に閉じ込める。
イルカの首筋を舌で愛撫しながら、布越しにペニスを触ってやると、たちまち固くなった。

「イ……ヤだっ。やめ……ろ」
「ごめんね。イヤだよね。俺にこんな風にされて。でもあなたを眠らせるための方法を、他に知らないんです。あなたの身体が心配でたまらない。本当にごめんね」

カカシは自らの掌に唾を垂らし、完全に勃ちあがったイルカの性器を緩やかに扱きあげる。

「ひゃぁあっ!」

若い身体はそれだけで、欲を吐き散らした。
羞恥と怒りに顔を赤く染め上げたイルカは拳をカカシの胸に叩きつける。

「やめろッ!! もうやめてくれっ」

けれど、心とは裏腹に若い身体は何度でも快楽を求めた。
すぐに立ちあがったペニスをカカシは掌で包み込む。
濡れてしまった服を取り去り、指で、口で、カカシはイルカの身体を慰めた。
幾度となくイルカは果て、ついには与えられる快楽に理性を飛ばし、「もっと、もっと」とカカシに取りすがる。
ついには、意識すら飛ばし眠りの世界へと堕ちて行った。

「おやすみ、イルカ」

ここでようやく、カカシは限界まで張り詰めて痛みすら感じる己のペニスに手を伸ばした。

「ごめんね」

疲れ果て、まるで死人のように眠るイルカに謝ってから、カカシは欲に濡れた目でイルカの裸体を視姦しはじめた。
冥府で暮らすようになって白さを増したイルカの肌に、己が施した接吻の華が咲いている。
そのひとつひとつを指先で辿りながら、もう片方の手で己のペニスを扱きあげる。

「イルカ……イルカ……」

荒い吐息の合間に愛する者の名を呼ぶ。
射精までにそう時間はかからなかった。

「イルカ……っクッ!」

ペニスから勢いよく放たれた白濁が、イルカの股から胸にかけて飛び散る。
その様子をカカシは呆然と眺めていた。
しばらくして我に返ったカカシの唇から、言葉が零れた。

「イルカ、ごめん……穢して、ごめん。あなたから陽の光を奪ってごめん。こんなにもあなたが苦しむと思ってなかった。こんなにもあなたが愛をくれないなんて思ってなかった……!! こんなつもりじゃなかったんだ!! イルカ!」

最後は血を吐くような叫びだった。
カカシがイルカに求めたのは、ささやかなものだった。
少しの愛を、それが無理なら同情でも憐憫でも何でもかまわなかった。イルカの心が欲しかった。
でもそれをイルカは決してくれなかった。

カカシの叫びに、眠りの世界から呼び戻されたイルカの唇がゆっくり開く。

「俺を愛しているなら、地上に……返して」

幾度となく聞いたイルカからの嘆願。
それだけは叶えられぬと言い続けてきた自分。

カカシは寝台の横に置かれた大理石の台に視線をあてる。
そこにはイルカが決して口にしない冥界の果実が置かれていた。

ルビーのように赤く輝く柘榴。
その実を眠るイルカの唇に押し込めば、イルカはもう地上には戻れない。
そうすれば皆、諦めがつくだろうか。

地上では豊穣を司る女神クレナイが大変な哀しみようで、その哀しみに呼応したように、全ての作物が枯れ果てたという。
絶滅の危機に瀕した地上を救おうと、アスマまでもがイルカを帰して欲しいと正式な使者をたててきた。
帰してやるべきだと思う。
しかし、冥府とてイルカがいなければ壊れるのだ。

血の気もなく痩せ細り、まるで死人のように眠るイルカの顔を、カカシは凝視した。
愛してくれなくても、愛している。この激しすぎる想いは永久に続く。
イルカのいない世界など、耐えられない。

カカシの繊細な指が、暗く輝く柘榴の実を摘み上げた。

「どうせ壊れるのなら、何が壊れても同じこと」







最高神アスマは、イルカの返還を正式に望み、カカシはそれを受け入れた。
アケローンの川のほとりに佇むカカシに、死の神タナトゥス=テンゾウが忍び寄る。

「行ってしまわれましたね」
「ああ」
「イルカ様は地上では生きれぬ身。僅かな時を地上でお過ごしになるのは却って残酷だったのではないでしょうか」 
「イルカはここには戻らないよ」
「えっ?」
「あの子は冥界の食物を口にしなかったからね、この先ずっと地上で生きていける」

あの日、カカシは、どうしても柘榴をイルカに与えることが出来なかった。
震える指先で何度もイルカの唇を割ろうとした。
だけど、そのたびに、「地上に返せ!」と叫んだイルカの顔が、降り注ぐ陽光の下で無邪気に笑うイルカの顔が、心に浮かび、カカシの心を責めたてた。

――ごめん、イルカ。精一杯愛したけれど、結局俺はあなたを傷付けることしかできなかった。どうか、どうか地上で幸せを取り戻して

「ボクが連れ戻してまいります! 時間をかければ、カカシ様の御心はきっと通じるはずです!」
「やめなよ、テンゾウ。もう充分に時間をかけた。だけどダメだった。イルカは決して俺を愛さないよ」

だけど、それでいい。
イルカにはこの陰鬱な世界も、俺も似合わない。

「俺は大丈夫。イルカが居なくても、冥府を未来永劫治めてみせる。イルカと過ごした時間が俺を強くしたんだよ。あの子の愛する地上を守る為なら、俺は何にだって耐えてみせる」
「カカシ……さま」
「テンゾウ、そんな哀しそうな顔をしないでよ。俺はイルカに出会えたから、今だって幸せだよ」

秩序と礼節を重んじ、冥界を治める優しき神カカシ。
その真摯な愛に敬意を表し、テンゾウは頭を垂れた。

イルカを手放してから、カカシは毎日のようにアケローンに出向いている。
クレナイに手を引かれたイルカがこの川を渡った日の幻影を、静かな水面に求めて。

あの日、イルカはただの一度もカカシを振り返ることなく、地上へと戻っていった。
それは、カカシにとっての希望であり、絶望だった。

川辺に生える一本の柘榴の木。
枝に実る果実の厚い皮の内側に、暗く輝く果肉が秘されている。
カカシは清らかな手を伸ばし、柘榴をひとつ、もいだ。

川の流れを横切って、小舟が渡ってくる。
また新たな死者を運んで来たのだろう。

心正しき者であれば、手ずからこの柘榴を与えてやってもよい。

心に浮かんだ気まぐれな想いに、カカシは船着き場へと歩を進める。
ほどなく、小舟が桟橋に着けられ、白いフードを目深に被った者が冥府に降り立った。
その嫋やかな動作に、なぜかカカシの心がざわめく。

白いフードの男は、迷いのない歩みで真っ直ぐにカカシを目指した。
男から、目が離せない。カカシの鼓動は激しさを増すばかりだ。
男は、カカシの身体まで半歩ほどの距離を残して立ち止まり、おもむろにフードを脱いだ。
黒く輝く髪が露わになる。
日に焼けた健康的な顔が、強い力を放つ魅惑的な瞳が、カカシの網膜に飛び込んでくる。

「イ……ルカ」

イルカは柘榴を持つカカシの手首を掴み、自らの唇へと導いた。
その様をカカシは呆然と見つめている。

―― なぜ、ここにイルカが? イルカは一体何を?

カカシの持つ柘榴。
その厚い皮から覘く果肉を、イルカの白い歯が齧り取った。
血のような果汁がイルカの顎を伝い、白のローブを赤く染める。

「イルッ!?」

イルカの喉が僅かに上下し、冥府の柘榴をその体内へと取り込む。

「ダメだ、今すぐに吐き出せ!」

片手で顎を掴み、嘔吐を促すために咥内に入れられたカカシの指をイルカは思いきり噛んだ。
しかしカカシは怯まず、舌の付け根を強く押してくる。
涙目のイルカがカカシの胸に拳を振り下ろし、頭を激しく降ってカカシから逃れた。

そしてすぐさま、唇で、何か言おうと開かれたカカシの口を塞ぐ。
イルカは拙い動きでカカシの咥内に舌を差し入れ、愛撫した。

「んっ……ふっ……」

イルカから与えられる口付けに快楽の吐息を漏らすカカシ。
カカシの身体から力が抜けるのを確認して、イルカは唇を離した。

「地上に戻ると、多くの神が俺に求愛しました。でも貴方ほど俺を大切にしてくれた神はいなかった。
俺はあなたに、あんなにも冷たかったのに、あんなにもあなたを傷つけたのに、それでもあなたは俺を心から愛してくれた。もしも、まだ俺を必要としてくれているなら、どうか、お側に置いてください」

今しがたイルカから受けた接吻に、告げられた言葉に、なによりもイルカが自ら望んで柘榴を口にした現実に、カカシの心は歓喜に打ち震えていた。
何千年と思い続けた愛がようやく受け入れられた喜びに、息が止るほどの衝撃を受けている。
今すぐイルカを抱きしめ、愛と感謝を叫びたいのに、情けないことに、指一本動かせなかった。

酷く真剣なイルカが、言葉を継ぐ。

「それとも、俺はもう、いりませんか?」
「いいえっ!!」

咄嗟に叫んだカカシを、イルカが抱きしめた。
カカシの逞しい胸に顔を埋め、想いの丈を言の葉に託す。

「あなたと離れて、ようやくあなたの尊さと優しさに気付きました。俺は、光射す地上よりも、この冥府であなたと共に生きていきたい。カカシ、俺はあなたを愛しています」

カカシは言葉を紡ぐことが出来なかった。
だけど、二人の間にもう言葉は必要なかった。
カカシはイルカは同じ強さで抱き合った。

時は流れる。
死すべき人間による幾多の争いの末に、ギリシアはローマ帝国に吸収された。
ギリシアの神々もまた、為政者の都合により改変され、土着の信仰に統合され、変異していく。
やがてキリスト教がうまれ、西欧を席巻し、ギリシアの神々は人々から忘れ去られた。

人々の信仰を失ったギリシアの神々は、その神性を失いはしたが、人に近しい存在となり、永らえることとなる。




epirogos

12月24日
ローマ ボルケーゼ美術館

一対の男女の彫像の前に、カカシとイルカの姿があった。

「あぁ、やっと実物を見れました。ものすごい迫力ですね。まるで今にも動き出しそうだ。これが大理石で作られているなんて、信じられない思いです」

イルカは興奮した様子で、台座の周りを歩き回り、ありとあらゆる角度から彫像を鑑賞し、感嘆の声をあげている。
一方カカシは苦笑いを浮かべて、イルカと彫像をかわるがわる眺めていた。

「どうしました?」
「いや、ちょっと。複雑な気分だね」
「俺たちが彫像になっていることですか?」
「それもだけど、俺に連れ去られるあなたの顔が、すっごく嫌そうだから。ほら、見て? 指の先、足の先まで嫌がってる。全身で俺のことを嫌がってる」
「よく表現できていると思いますよ。実際すっごくイヤでしたから」

にっこりと告げるイルカの頭にカカシはポンッと掌を乗せた。

「あのときは、ごめーんね? イルカのことが大好きすぎて、どうかしてた」
「そんなの今更ですよ。それにしても、彫刻のカカシさんはものすごくオッサンですね。なんだ、この髭もじゃ。実物と全然似ていない」
「それを言うなら、あなたなんて女にされてるじゃないの」
「まぁ、どちらも些末なことですけれどね」
「え? それ、些末なの?」

カカシは少し驚いたようだ。

「ええ。俺たちの恋物語が何千年も語り継がれて、こうして優れた作品になったりもするんです。俺はとても感慨深いですよ」
「確かに、ねぇ」

二人はバロック期に活躍した、稀有な才能をもつ彫刻家に想いを馳せた。
巨大な石の塊を前に、大変な集中力をもってノミを振るい神々の姿を現していく。
その孤独な闘いを支えた彼の熱情を、尊いと思う。

敬意をもって作品を鑑賞した二人は、やがて美術館を後にした。

空には白が舞っている。
街路樹は色とりどりの電飾で飾られ、夕焼けの空を照らしていた。
庭園を抜け、旧市街に出ると、そこは白と青の光の洪水だった。
キリストの生誕を祝うこの日の為に、美しく飾り立てられた街を、カカシとイルカは寄り添って歩く。

どこからともなく、軽やかなチェンバロに包まれた、潔い弦の音が聞こえてきた。
真っ直ぐに突き進む、音の有り様の美しさに感心したイルカは、足を止め、耳をそばだてる。
慣れ親しんだ旋律が奏されてゆくことに、イルカの心が喜び、跳ねた。

「よかったね、イルカ」

カカシはイルカのどんな些細な変化も見逃さない。それをイルカは誇らしく思うのだ。

「カカシさん、今日は素敵な日です」
「そうだね、聴き終ったら、会場に急ごうね」

―― 俺だってクリスマスパーティをしてみたいってばよ!!

かつての太陽神のひと声が、オリュンポスの神々の心を動かした。
アスマ、紅、ゲンマ、ミズキ。今宵は、懐かしい顔に出会えるだろう。
彼等を歴史の表舞台から下ろしたキリストの誕生を祝う。
それはとても素敵な心の変化だった。

いつしか太陽は沈み、宝石の輝きが夜空を飾っていた。
コートの隙間から忍び込む冷気に顔をしかめながらも、寄り添う二人は間違いなく幸せだった。



彫刻:ベルニーニ 『プロセルピナの奪還』
音楽:コレルリ『クリスマス協奏曲』


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