星がたりの夜に
イルカ先生が俺の家に来たのは、月が地平線からぽっかりと姿を現した頃だった。「カカシさん、星を見にいきませんか。今夜は多くの星が流れるんです」
「いいですね」
片恋の相手からの風情ある誘いに胸を躍らせ、俺はイルカ先生の数歩後ろを歩く。
夜に踏み入まれた世界は、紺色に染められてゆく途中で、太陽の残り灯が地平線からほんの数十センチの空間を朱くしていたが、それももうすぐ終わるだろう。
イルカ先生はその朱に向かって歩いていたから、彼の後姿はとても暗いのに眩しくて、俺は目を眇めるしかなかった。
イルカ先生は俺を振り返ろうともせず、ただ黙々と歩いていく。
里を抜け、森を抜け、川を幾つか渡って俺達は原っぱに着いた。
随分と歩いたから月の位置も変わってしまって、闇は深く、天体観測には丁度良い。
それはとても広い原っぱで、ビョォ、と風が草を撫でて通り過ぎるさまに俺は海を感じる。
イルカ先生は足をとめ、宇宙を見上げている。
もう随分とそうしているから、きっと此処が彼の目的の地なのだ。
外に出た頃には控えめに輝いていた星々が、今や、この世の盛りとばかりに眩いほどの光を地上に投げかけている。
原っぱの彼方此方から聞こえてくる虫の音に耳を傾けながら、俺は空を眺めている。
ぴぅ
中天から一筋の光が流れた。
まるで花火の名残のような光の強さに、俺は目を瞠った。
ぴぅ
と、また一筋。
目が慣れてくると、多くの星が空のある一点から放射状に流れていくことに気付いた。
「ペルセウス座流星群ですよ」
イルカ先生の柔らかな声が耳に届いた。
「神話の時代の英雄を象った星座から、今夜は多くの星が流れるんです」
「へぇ。流石ですね。よくご存知だ」
俺の言葉にイルカ先生は笑ってくれた。その綺麗な笑顔に俺は見惚れる。
「先生、聞かせてくださいよ。その英雄の話」
「よろこんで」
先生は星になった英雄をひたと見つめながら、少し長い話になります、と俺に断って唇を舌で湿した。
「神話の時代に、ゴルゴーンの三姉妹と呼ばれた怪物がいました。あるとき、ペルセウスを疎む王は、彼に三姉妹の末娘、メデューサを殺す試練を与えます」
「末の娘だけ、ですか?」
「ええ、他の二人は不死を約束されていましたから」
「不死、ですか」
万物に等しく与えられた、死の救い。
その恩恵を奪われた化け物の生がどんなに忌まわしいか、考えるだに恐ろしい。
死が約束されているからこそ、狂わず今を生きていけるのに。
三姉妹は元は美しく無垢な海の娘だったが、神に不敬をはたらいたため化け物にされたという。
俺と一緒だと思った。
父を喪った幼い俺は、無垢で愚かなまま育ち、無自覚に罪を重ねた挙句、友を殺した。
あのときに、神の怒りをかったに違いないのだ。
そして、写輪眼を得て、化け物になった。
師までも奪われた俺は、それでも幸いなことに、死すべき運命を赦されている。
しかし、本当に死を赦されているのだろうか?
ふと心に湧いたこの恐ろしい疑問を、俺は必死で精神の牢獄へと封じこめた。
「ペルセウスは神々の力を借りて、メデューサの居場所を探り当て、女神アテナの導きでその首を打ち落としました。
そのとき、滴り落ちるメデューサの血から天馬ペガサスが生まれたのです。
ペルセウスは、メデューサの首を国に持ち帰るため、ペガサスに乗り空を渡ります。
彼はエチオピアの上空で、鎖に繋がれた乙女が海の怪物に喰われそうになっているのを見つけメデューサの目を使って怪物を石にし、乙女を救いました。乙女はエチオピアの王女アンドロメダでした」
死してなお、化け物は化け物である、と言われた気がした。
「恐ろしい、眼だ」
「昔の人は、畏敬を抱いたでしょうね。ほら、流星が産まれる辺りに一際輝く星が見えるでしょう? あの星をジッと眺めてみてください」
星は光る。
青白く。
そして、仄赤く。
また、青白く。
「色が、変わる?」
「ええ、時と共にその色を変える大変珍しい星で、変光星と呼ばれています。
人々は畏怖と共にこの星をメデューサの目に見たて、ペルセウスがメデューサの首を掲げている様を星に写したといわれています」
好きですよ。
と、唐突にイルカ先生は言った。
驚いた俺は、空から眼をそらしイルカ先生を見た。
宵闇よりも黒く、星よりもキラキラした二つ目が、俺を見ていた。
「俺はメデューサの目が好きですよ。神秘の力でアンドロメダを守りました。どんな力を持っていたとしても、眼は眼でしかない。そこに罪はないのです」
ああ、この人は。
俺のことが好きなのだと思った。
嬉しくて、嬉しくて。
だけど困る。
想いを通わせ合うことなど望んだこともなかったから、どうしていいのか分からない。
「貴方はまるでペルセウスだ。守るべき人の為に、その稀有な力を揮う」
「俺が、ペルセウス?」
メデューサではなくて?
「はい。メデューサを救い、アンドロメダを救い、国を救う英雄です」
「メデューサを救ったって……そりゃあまた、変わった解釈ですね」
「ペルセウスの太刀は、メデューサの呪いや罪や業。そういったもの全てを浄化したのだと俺は思っています。ペガサスは彼女の生まれ変わりではないかと思うんです。
俺は貴方の太刀にもこの世の業を断ち切る力を感じますよ」
「俺はそんな良いモンじゃないけど」
俺が断ち切るのは人の命だ。
「でも、俺がペルセウスだっていうのなら、貴方が俺のアンドロメダになってくれるのかな?」
戦い以外ものを知らない俺だけど、英雄が助けた姫と結ばれるのが定石だってことくらい知っている。
イルカ先生、貴方が俺のアンドロメダになってくれるのなら、俺は写輪眼だってなんだって使って貴方を守るのに。
「いえ、俺はアンドロメダにはなりませんよ。だいたいカカシさんは、もう小さなアンドロメダを3人も抱えているでしょう?」
兄というの鎖に繋がれた、
九尾という鎖に繋がれた、
恋という鎖に繋がれた、
小さく愛しい者たち。俺が守るべき子どもたち。
「はは。確かにそうですね。しかし参ったな。今告白したつもりだったんですが、さり気なく、だけどハッキリと振られてしまいました」
好かれてる、と思ったのに。
でも、まあ、イルカ先生は俺を英雄だと言ってくれた。
「俺が貴方を振る? まさか」
イルカ先生は俺に近づくと、手を伸ばし、俺の頬に触れた。
それから顔の輪郭を確かめるように、ゆっくりとなぞりあげ、額当ての鉄板を愛しげに指先で数度叩いたのち、布の結び目に触れた。
俺はイルカ先生が結び目を解きやすいように頭を垂れる。
「ありがとうございます」と小さく呟いた後にイルカ先生は俺の額当てを取り去った。
俺はこれからイルカ先生にすべてを晒すのだ。
覚悟を決めて口布をとり、瞼を開けて紅い瞳を開く。
俺は生まれてはじめて、両の眼でイルカ先生を見た。
「綺麗ですよ、カカシさん」
「あなたこそ。でもイルカ先生、どうして泣きそうな顔をしているんですか?」
「だって、アナタがとても悲しそうだから」
イルカ先生の顔が近づき、俺は口付けを期待してしまう。
だけど、それはいつまで待っても訪れなかった。
かわりに、先生は俺とおでこをくっつけてくれた。
ふれあった額がじんわりと温かくなってきて泣きそうになる。
人の温みなど、とうの昔に忘れていたから。
目を閉じたイルカ先生からは、静かな決意がにじみ出ていた。
「知恵と戦いの女神アテナは、ペルセウスに盾を与え、メデューサとの対決の折には彼の側で彼を守護しました。
俺は、貴方に守られるアンドロメダではなく、アナタを守るアテナになりたい。
どんな苦しみからも哀しみからもあなたを守りたいんです。どうか俺をお側においてください」
イルカ先生の声が、ひび割れた心に染入って。
ああ。
オビト
リン
先生。
それから、父さん。
嬉しいんだ。
イルカ先生が言ってくれたことが。
イルカ先生の想いが。
身体の奥底から歓喜が湧き上がってきて。
生きてるって感じがする。
こんな気持ちは初めてなんだ。
心のすべてが、イルカ先生が欲しいっていってるんだ。
この人と共に生きていきたいって。
もう、俺は幸せになってもいいかな?
もういいでしょ?
いいよね?
ダメだって言われたとしても、俺はこの人と幸せになりたいんだ。
この人の側で生きる。
ごめんね。
俺だけ幸せになって、ごめん。
本当に、ごめんね。
「イルカ先生......」
俺たちの唇が静かにかさなって、俺は愛を取り戻す。
流れる星の下で。
終
(2016.08.25)