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   蛍



夕方から降り始めた雨は徐々にその激しさを増し、初夏の大気が孕むどうしようもない熱を鎮めていった。
窓際に座ったイルカは脚絆を巻きながら、窓の外を気にしている。
開け放たれた窓から雨粒と共に流れ込む風が汗ばんだ肌に心地よい。

けれど。

「カカシさん、風邪ひくなよ」

雨に濡れたくらいで体調を崩すような男ではないと知っていても、任務に明け暮れるその躰を気にせずにはいられない。
早く帰ってこい無事に帰ってこい、と、イルカはその帰りを待ちわびる。
いつも窓をあけて。その外を気にして。

イルカの耳が、激しい雨音に紛れた幽かな足音を拾った。
口元が緩やかな弧を描いたのは一瞬のこと。
すぐに引き締まった表情に戻り、任務服に巻物を仕込んでゆく。

トン。

と、軽やかな足音をさせてイルカの男が窓枠に降り立った。

「お帰りなさいカカシさん。玄関から入れっていつも言っているでしょう?」
「ごめーんね? だって1秒でも早く貴方に会いたかったんです。ただいま、イルカ先生」

この、いつものやりとりの間に、イルカはカカシの様子を深く観察し、彼の心身の状態を見抜く。

(よかった。今回の任務は辛いものじゃなかったみたいだ……)

胸をなで下ろしたイルカはカカシにタオルを放り投げ、リュックの中の装備を確認しながら口を開いた。

「飯、冷蔵庫の中に入れてあるんで適当に食ってください。朝には戻ります」
「任務ですか? 入れ違いにならなくてよかった。貴方の顔が見れて、よかった」
「俺もです。では」
「いってらっしゃい。気を付けて」

それが、イルカと交わした最後の言葉だった。



月のない夜だった。
空を飾る数多の星も、厚い雲にその輝きを奪われて。
だから、墨を塗り込めたような闇が地上を支配している。

イルカは荒れた竹林を歩いていた。
流れる川に沿い、奥へ奥へと。
腰高の草を手で薙ぎ払うたびに蛍がふぅわり舞い上がり、イルカの姿を儚く闇夜に浮かびあがらせる。

半刻ほども進めば、朽ちた屋敷が見えてきた。
屋敷へと続く千鳥打ちの飛石は所々ひび割れ、雑草が顔を覘かせている。
倒れた灯篭や、方々に伸びた松の枝の側を摺り抜け、イルカは屋敷の前に辿り着いた。

数寄屋造りの屋敷は当然華美な装飾を排しているものの、崩れ落ちた本瓦の意匠や、廃れてもなお威圧感を失わぬ門構えから、ここで生きた一族の栄華が窺える。
それが余計にイルカの憐れを誘った。

彼が請け負ったのはCランクの単独任務。
内容は打ち捨てられた屋敷で起こる怪奇現象の調査と解決。
つまりは、今、屋敷から幽かに漏れ聞こえる女の哭き声をなんとかしろという話だ。

――――あの方を慕いて、疾く疾くと心は急くばかりなり  
なれど、なれど、嗚呼、口惜きは、この我が身――――

イルカは声を頼りに足を進め、蝋燭の薄明りが漏れる部屋の前に立つ。
障子を隔てた中に感じる気配は人ではない。
ならば、誰何の声に答えを偽る必要もない。

「木の葉の忍、うみのイルカと申します」

応えはなかったが、暫くして衣擦れの音をさせ、女が障子を開けた。

それは絣の着物を着た若い女で、身動きもせず口も開かずに相手を虜にしてしまうほどの美貌をもっていた。
不自然に生白い顔と紅い唇が、女の纏う色香をより濃いものにしていたが、それこそが、この女がこの世の理を外れた存在だと示してもいた。

女の存在感に呑まれそうになる己を叱咤し、イルカは口を開く。

「不躾な質問で申し訳ないのですが、どなたでしょうか」
「うちはホタル。うちはイタチの許嫁でござります」

――やはりか――

イルカの顔が厳しいものになった。

「何故ここにいらっしゃるのです」
「どんなに望んでも、あの方の元へ参ることができないからでございます。どうしても、この屋敷から出れぬのでございます。でも、貴方様のお力をお借りできれば、もしかすると……」

ホタルは訥々と語り始めたが、話がイタチのことに及ぶと、たちまち夢見るような瞳になり、滑らかに話し出した。

「わたくしには、あの方が全てです。あの方は強く、清く、そして誰にでも優しい方でしたが、わたくしのことを一際大切にしてくださいました。
庭に紫陽花が咲いたといっては摘んできてくださり、月が綺麗だといっては連れ出してくださり、そうやっていつもわたくしの心に添うてくださったのです。

うちはが滅んだあの日ですら、あの方は優しかった。
あの方は此処で、常になく荒々しく、何度も何度もわたくしを求めてくださいました。
今生の別れに、と、情けをかけてくださったに違いないのです」

ホタルが手を高く上げると、着物の袖が落ち、肩口にわだかまる。
そして手首のほっそりとした素晴らしく形のよい腕が剥き出しになった。
己の白い肌に残された幾つもの赤い痕をホタルは濡れた瞳でうっとりと見つめている。

「あのとき、あの方が一族を殺めよと命じてくだされば。
わたくしはあの方の代わりに血の涙を流し、うちはを根絶やしにしたことでしょう。
咎や業を共に負う覚悟は、とうに決めておりましたのに、あの方は全てをたったお独りで背負われてしまったのです。

それだけではありません。
一族の者を次々と屠るあの方のお姿をわたくしが見ずにすむように、と最初に殺めてくださいました。
幻術も術も使わず、ましてや武具すら使わずに、自らの手でわたくしの心の臓を刺し貫いてくださったのです。

あの方はわたくしが息絶えるそのときまで、側についていてくださいました。
自己への憐憫などは一切排除して、涙ひとつ浮かべず、謝罪の言葉すら口にせず、ただわたくしの死のすべてを見届けてくださいました。
ヒキガエルのような醜い声にも耳を塞がず、蛇のように見苦しくのたうつ様にも目を逸らさず、決してお前を忘れぬ、どのようなお前もすべて覚えて生きていく、と仰って。
あの方の逞しい腕に抱かれ、あの方の真摯な瞳に射られながら、わたくしは逝きました。

けれど、わたくしの心はここに残りました。
愛しい愛しいイタチ殿。
わたくしは貴方様をお守りしたい。

嗚呼、イルカ殿、貴男の躰を貸してはくださいませぬか。
わたくしにはわかるのです。
あの方は今、うちはの未来とあの方の持てる全ての力を弟君に託すため、命をも投げ出そうとしているのです。
わたくしはあの方の愛に報いたい。
イタチ殿に弟君と共に生きる道を与えてさしあげたいのです」

イルカは、ホタルの苛烈で真摯な恋心に圧倒され、言葉を失っていた。



イルカが任務に出て二日が過ぎた。
何の連絡も寄越さず、未だ戻らぬイルカを心配したカカシは、綱手の元を訪れていた。

「カカシよ、イルカが就いた任務はコレだ」

差し出された依頼票をカカシは丹念に見回す。
依頼自体は、屋敷に棲みついた物の怪を成仏させる類のもので、さして難しいものではない。
あのイルカが2日もかけるような任務ではないのだ。

半信半疑で紙に手を翳し幻術破りの術をかけると、屋敷の所在地を示す文字が滲み別の文字が浮き上がってきた。

「綱手様!」
「なっ!? 此処はうちはの屋敷じゃないか!」

カカシと綱手の顔色が変わった。
イタチが鬼鮫を引き連れ、木の葉を襲ったことは記憶に新しい。
なんらかの事情でイタチが再び里に戻ったとしても不思議はない。
もしも、もしもイタチとイルカが接触していたとすれば……。

「カカシよ、任務を与える。直ちにイルカの身柄を保護せよ 」
「御意!」

短い応えを残し、走り去るその背を見ながら、綱手はギリと唇を噛んだ。

サスケが里を抜けてからのイルカは、どこか様子がおかしかった。
サスケに繋がる情報なら、どんな些細なものでも知りたかったのだろう。
受付に来る任務票全てに目を通し、ときには極秘の依頼票を盗み見ることすらあった。

それでイルカの気がすむのなら、と、火影という立場にありながらその勝手を見逃していたことがイルカの失踪に繋がったのだ。
まさかイルカが任務票を改竄してまで手がかりを求めに行くとは思ってもみなかった。

激しい後悔が綱手を襲う。

「あの、バカッ! 無事で帰らんと許さんぞ!」



口寄せた忍犬によれば、街道の途中に設けられた、とある宿場町にイルカは居るという。
早馬を走らせ、そこにカカシが辿りついたのは夕暮れだった。

カカシは注意深くイルカのチャクラを探ったが何故か感知出来ず、足での探索に切り替えるほかなかった。
まずは過客の集まる旅籠から聞き込みをはじめたが、有力な手がかりは得られない。
ならば捜索範囲を広げるまで、と、太鼓橋を渡った先の辻を曲がろうとしたとき、視線の端にイルカの姿を捉えた。

カカシは咄嗟に踵を返した。

イルカ! と叫ぼうとして、強烈な違和感に押しとどまる。

イルカは街道へ続く道をたおやかな足運びで駆けていた。
常ならば一本に結えられているはずの黒髪は、今や解かれ、背の中ほどで揺れて妙なる色香を醸し出している。

まるで、女だ。

イルカのチャクラも感じられない。
もうこれは、何者かがイルカの躰を乗っ取っているに違いなかった。

カカシの腹の底から猛烈な怒りが湧き上がる。

ザンッ! 
と音を立て、強力な結界がカカシの指から発生し、イルカの形をした女を瞬時に取り囲んだ。
動きを止められたにも関わらず女が悠然と振り返る。

「誰だか知らないが、その躰を返してもらおうか」

底冷えのする声でカカシが吠えた。
女はしばらくの間、静かな瞳でカカシを見ていたが、やがて目を閉じた。
すると、たちまちイルカの気配とチャクラが戻ってくる。
次に目を開けたとき、そこにいるのは紛れもなくイルカだった。

「イルカせんせ……」
「カカシさん、心配をおかけしたみたいですみません」
「一体どうなっているんです!?」

イルカは事の顛末をカカシに話して聞かせた。

「納得出来ません。今すぐ貴方の躰からホタルを追い出してやる!」
「やめてください! 俺が望んだことでもあるんです」
「望んだって、何故です!? 死者との身体共有がどれだけの負担を術者に強いるか、貴方も分かっている筈だ!」
「勿論知っています。でも、ホタルの想いを護ってやりたいんです。それにサスケにも会いたい」
「サスケへの気持ちは分かります。でも、貴方がそこまでホタルに肩入れする理由は無いはずだ!」
「いいえ。俺はイタチを恋うホタルの気持ちに心を打たれました。
俺は貴方と情を交わすようになってから、俺たちの関係をどう捉えればよいのかずっと悩んできた。
人たる前に忍であれ、と育てられ、その通りにしか貴方を愛せなかった。
だけど、ホタルは違います。
イタチの為なら忍であること、人であることを捨てられるほど、彼を深く愛している。
俺はホタルが羨ましい。
彼女のように貴方を愛せればと、思ってしまった。
ホタルの望みを叶えてやれたときに、貴方と共にどう生きてゆくのか、その答えが出せるような気がして」

だから、どうしてもホタルにこの身を分けてやりたいのだと、イルカは言った。
今回の一連の行動が既に忍としての範疇を越えていることにイルカは気付いていない。
それほどまでにイルカは必死なのだ。

カカシもまた、何をおいても己を愛そうとしてくれているイルカに、その矛盾を突き付けられるはずもなく。
しかし、譲れぬこともあるのだ。

「イルカ先生、貴方の気持ちは分かりました。でも暁がどう出るかわからない。悪くすれば、貴方ごとホタルを屠ろうとするかもしれないんです。だから……」

イルカがカカシに鮮やかに笑いかけた。

「そのときは、貴方が俺を守ってくれるんでしょう?」

カカシがイルカに懸ける想いと、カカシの忍としての強さ。
その両方を一片たりとも疑わぬイルカの表情に、カカシは胸を衝かれた。

嗚呼、この人は。
もうこんなにも俺を想っているのに、身命を賭してまで更に深く俺を想おうとしてくれている。
今のイルカを否定することはカカシには出来なかった。

「……分かりました。何があっても貴方は俺が守ります」

「ありがとう、カカシさん」

イルカはカカシの頬に唇を寄せ、目を閉じた。
イルカが次に目を開くときには、イルカの意識は消えているだろう。
そう思うとカカシの胸が切なさに軋んだ。



イタチのチャクラを縁に辿りついた地は、地獄の様相を呈していた。
かつて森だったそこに木々はなく、剥き出しにされた大地はパックリと割れ、虚ろな穴を晒している。
全てが終わったそこは、不気味なほど静かだった。

「イタチ殿?」

細く震える声でホタルが愛しい男の名を呼ぶ。
彼のチャクラは途絶えた。
イタチは死んだ。

ホタルは、間に合わなかったのだ。

地に倒れ伏したイタチを遠目に見つけ、ホタルは駆け出した。

「イタチ殿!!」

木の根に足をとられ転びつつも必死に足を繰り、イタチに辿りついたホタルは、血濡れの骸をその胸にかき抱いた。

「イタチ殿、イタチ殿!」

うわあぁ、と泣き伏せるホタルの背をカカシは痛ましく見つめていた。
気の済むまでそうさせてやりたかった。
しかしイルカの命の気配が薄れてゆく。カカシは恐怖に駆られ、叫んだ。

「ホタル殿、もうイルカを返してください!」
「ええ。ええ。申し訳ございません。イタチ殿が亡くなった今、私の未練も消えました。どうか、どうか、この方の骸を弔ってくださいまし」

ありがとうございました、と言葉を遺し、ホタルは消えた。
力なく倒れるイルカをカカシは背後から強く抱きしめた。



イルカが目を覚ますと、地に敷き詰められた紫陽花の上に横たわるイタチの姿があった。
カカシによって清められた躰は生前の美しさを取り戻し、死んでいるのが嘘のようでもある。
どこからか一匹のホタルが飛んできて、イタチの胸元でその羽を休めた。

「カカシさん、蛍です」
「うん。ホタルなのかも、しれないね」
「沢山の紫陽花……これはカカシさんが?」
「うん。少し離れた山の中に沢山咲いていたんだ。最期くらいは美しいもので囲んであげたくて」
「……そうですね」
「イルカ、俺たちで送ってやろう?」

イルカはカカシの側に寄り添い、右手をそっと差し出した。
カカシの左手がその手を硬く握りしめ、また離れた。

イルカの右手とカカシの左手。
二人で一つの印を結ぶ。

火遁

二人の体内から生じたチャクラが混ざり合い絡まり合って朱殷の炎となり、イタチへと向かっていった。
熱に炙られ花の香が辺りに立ち込める。
炎は徐々にその温度をあげ、遂には紺瑠璃の劫火となって、何もかもを包み込んだ。

紫陽花も
蛍も
イタチも

全て灰になった。


カカシとイルカは繋いだ指を離すことも、言葉を交わすこともできず、ただ其処に立ち尽くしていた。



地平線に新しい太陽が昇りだす様を、カカシとイルカは眺めている。
二人の目には深い哀が刻み込まれていた。

「ねぇイルカ、答えは見つかった?」
「はい。何一つままならない人生だけど、俺は何よりも貴方のことを大切にすると誓います」

忍としてではなく、人として、真摯に貴方を愛していくのだと、イルカは言った。

「俺もです」

カカシは繋いだ手を強く握り返した。


(2016.06.28)


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