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   愛しき日々にさよならを(前篇)

机上に小さな虹を見つけた。

真っ直ぐに伸びる七色の光を辿れば、ミモザを挿した花瓶に行きついた。
水を湛えたガラスがプリズムの役割を果たし、窓から差し込む陽の光を分散させていたようだ。
全ての色が夕日の朱に寄り添ってゆく過程で、その小さな奇跡は鮮やかな輝きで天板を彩っていた。
教材や巻物の類が所せましと並んでいた昨日までなら、その美しさは半減していただろう。

そんなことを思いながら俺は一番上の引出に手をかけた。
いつもの調子で手前に引けば、カラカシャン!と音をたて、あっという間に開き切ってしまった。中身が少ないとこんなにも軽いのかと驚きながら、文具と印鑑数本を取り出し鞄に収める。

今度は、音をたてないようにそっと二段目の引出に手をかけた。
引出から顔を覘かせた茶封筒には今日、生徒から貰った手紙や絵、折り紙などが入っている。
来る日も来る日も茶封筒を持ち帰る俺に、教師たちは呆れた顔で言葉をかけたものだ。「おい、イルカ。そのうちお前の家は茶封筒の重みで潰れてしまうぞ!」って。
けれど、彼等はいつか知る。
我が子の骨壺(中身が空っぽの場合も珍しくない)を抱えて呆然と立つ両親に、俺が「遺品」となってしまった作品を手渡すのを。

次の引出には個性的で扱いが難しい子の指導要領が入っている。術のクセから本人の気質などなど事細かに書き込まれた書類は、今後の指導にもきっと役に立つだろう。これは後任の教師に手渡した。

その次の引出の中身は既に全て持ち帰っている。
隣の引出も、その下の引出も。

全ての引き出しを空にしてしまうと心も空になった気がして、目の辺りにじんわりと熱が集まりはじめる。
慌てた俺は、立ち上がって朗々と声を張り上げた。

「みなさん、長い間お世話になりありがとうございました。それでは失礼します」

遠巻きに俺を見ていた教師たちが丁寧なお辞儀を返してくれる。

「イルカ先生、本当にお疲れ様でした。あの……明日のこと、本当によかったのですか?」
「ええ。明日はあの子たちのための卒業式ですから」
「でも、私たちはイルカ先生の功績に見合った形でお送りしたいんです。きっと子どもたちもお別れを言いたいはずです」
「お気持ちは大変嬉しいですが、学校は生徒のもので教師のものではありませんので」
「……わかりました。イルカ先生」

ありがとうの気持ちを込めてニッカリと笑い、花瓶からミモザを抜き取り歩き出す。

「先生っ」
「うみの先生!!」
「イルカ先生」

沢山の声に呼び止められ振り返ると、今にも泣きそうな教師達が目に入った。
何かを言おうとして、やめる。
惜しまれる身であることへの安堵や、慣れ親しんだ生き方を手放す寂しさ。
口を開けば心に留めておくべき感傷を晒してしまいそうで、深々と、本当に深々と一礼した。

<定年>を迎えた俺は、今日をもってアカデミーを退職する。
職種柄、低い年齢に定められた定年だけど、定年で職場を去る教師は俺がはじめてだ。
<内勤>と揶揄されることもある職業だけど、実状はそんなに甘いものではない。
生徒に苛烈な戦場を生き抜く術を教えるには、<戦い>を熟知する必要がある。
だから<教師>で在りつづけるために、鍛練を重ね、教務の間を縫うように任務に赴く。こなす任務の数は戦忍に比べれば極端に少ない為、気楽だと思われるのは仕方がない。けれど実際は場数を踏めないからこそ命の危険が増す。
実際に殉職した教師も、忍として再起不能な怪我を負った教師も数多くいる。
そして<教師>として生きる重圧に耐えきれずやめてしまった者もその倍以上いた。
それぞれの教師の去り際は生徒の心に留まり続け、記憶の奥に潜んだあとも、折にふれ蘇ってくる。

「自分は忍として生きていけるのか、生きていきたいのか」

と、生き抜くために必要な問いに向き合うことを強いる。

教師は、教壇を去る最後の瞬間まで教師で在りつづけるのだと思ってきた。
だとしたら、<定年>という平和な幕引きは、生徒たちの心に何を残せるのだろう。
大きな痛みと共に大戦を乗り越えた世界は、随分と優しく儚くなった。その時代を象徴するかのような去り際に、彼等が何を思ってくれるのか、また思わないのか俺には分からないけれど、潔くあろうと思う。

ガラリ。
引き戸がたてる乾いた音を記憶に刻みつけながら職員室を後にする。
経年により黒ずんだ廊下を一歩一歩踏みしめながら、もうここを歩くこともないと思うと、節が落ちた穴だらけの床板すら愛おしく思うのが不思議だった。
最後に教室を見ておこうと階段を目指していると、薄紅色の花びらがポツンと落ちているのを見つけた。
ふと頬に風を感じ視線をあげてみれば、硝子越しの薄青い景色の一部分だけが、鮮やかな色彩に満ちていた。

空の青。
雲の白。
芝生の緑。
桜の薄紅。

見慣れたはずの色の調和がひどく美しいものに思えて、俺はしばらくそこに立ち尽くしてしまった。
今、床板の上で佇む桜の花びらは、校庭から風に攫われ、ただひとつ開けられた窓を通りここに辿り着いたのだろう。
奇跡のような偶然を経てここに来たのだと思うと何かしら感動に似た思いが胸にこみ上げてきて、かつての生徒と同じ名をもつ花のカケラを大切に摘み上げ、ポケットに忍ばせた。

もう一度、窓からの景色を心に収めてから階段を昇る。

普段は使わない手すりに片手を預け、鉄の冷たさを肌で感じながら、一段一段昇っていく。
あぁ、ここはこんなにも広かっただろうか。
休み時間になると生徒たちの雑多な足音が響いた階段。毎年、手すりを滑り降りる子や踊り場でふざける子がいて、声を張り上げ注意したものだった。

階段を昇り切れば、微かなチョークの匂いが漂ってきて、日番がドアを閉め忘れたことを知った。
その子の落ち込む姿が目に浮かび「気にするんじゃないぞ」と無意識に呟いてしまい、苦笑する。

既に過去の場所になってしまった教室の、夕日に影を伸ばす教壇に立てば、其処此処に染みついた思い出が心に浮かび上がってきた。

今日のように校庭の桜が満開になると、生徒たちは授業そっちのけで外を見つめたものだ。
幼いのにもう桜に情緒を感じるのか、と感心していると、桜餅を売る屋台が気になっていたと分かって、ずっこけたこともある。「授業に集中しろ!」と言えば「そんなの無理だってばよ!」と怒鳴り返した可愛い子ども。立場上、渋々を装って全員に振る舞った桜餅のことを、今でも旨かったと言いに来る子達がいる。
あのクラスは本当に食いしん坊ばかりだった。
毎日給食はあっという間に無くなって、隣のクラスの余りを分けてもらったっけな。

授業開始のチャイムと同時に、喧嘩が始まることもしばしばだった。
俺の鉛筆のほうが書きやすいだの、お前の消しゴムはダサいだの、くだらないことに必死になる子どもたち。
新任の頃は怒鳴ってやめさせていたけれど、子どもという生き物に慣れてくると「くだらない」というのは俺の感覚で、この子たちにとっては「大事」なことなんだと分かってきた。

気の済むまでやらせてやらんと、後々こじれるってことも。
だから怪我のない範囲で思う存分喧嘩させた。その後の説教を神妙に聞く子どもたちの素直さを慈しみ、守ってきたつもりだ。

開け放たれた窓から入ってきた風が、机につっぷして眠る子の教科書をパラパラとめくっていた夏の日々。
大声を張り上げても起きる気配のない子が1人、2人……3人。水泳の後はいつもこうだった。
そんなに疲れたなら眠らせてやるか、と、居眠りには気付かないフリをして授業を進めるも、あんまり気持ちよさそうに寝ているもんだから羨ましくなったっけ。
塩素の香りが漂う教室で、黒板にチョークを当てながら、俺は間違いなく幸せだった。

沈みゆく太陽が、あたりを血の色に染めた秋のある日、俺は初めて教え子の訃報に接した。あの苦しみと悲しみは何度経験しても慣れるものではない。
手塩にかけて育てた生徒が、自分よりも先に逝ってしまう。生きていた頃の想い出は急に輝きと重みを増し、あっという間に心を埋め尽くす。教師として、もっとしてやれたことがあったのではないか、俺が導き間違えたのではないか、という思いに苛まれる。
その想いは、歳を重ね、世の理を知るにつれて強くなっていく。
時が経つほどに深くなる傷があると知ったとき、俺は大人になったのだろう。

冬になるとストーブの近くに机をギュッと集めて授業した。そうすると子どもたちは肩と肩が触れあいそうなお互いの距離に興奮してか、いつもより声が大きくなる。

「せんせー!! イルカせんせ! 俺それ分かるってばよ!!」
「はい! はいっ! 先生今度こそ私を当ててください!」

まるで親鳥に餌をねだる雛のような騒々しさに「うるさいぞ!」と笑いながら耳を塞いだ。
そうしたら、夏にあんなに真っ黒だった子どもたちの肌が白くなっていることに気付いて、涙が止まらなくなって。

「せんせーどうしたの?」

心配して寄り添ってくれる子ども達を強く、強く抱きしめた。



沢山の季節を沢山の子どもたちと超えてきた。
思えば多くの生徒を見てきたものだ。
あの子たちを教え導けたとはとても思えない。
あの子たちはこの教室で、自分のペースで小さな小さな成長と誠実な努力を積み重ね、大人になる準備をしてきた。
ただ俺はあの子たちを愛し、あの子たちの成長を見守っていただけだ。
ここで過ごした全てをまるで昨日のことのように思い出せる。
これからは、愛しい記憶たちを抱きしめて生きていこう。

さぁ、もう去らなければ。



*



校舎を出ると、太陽は少し前に地平線に隠れたらしく、その名残がオレンジ色の帯となり空の蒼に繋がっていた。

宵闇に沈む校門の先に人影を認める。それが誰だか気付いたとき、自然に頬が緩んだ。
校門を出ると、彼が静かに語りかけてきた。

「イルカせんせぇ、今までお疲れ様だってばよ」

万感の想いが込められた言葉と共に差し出された手を、無意識に握りしめていた。

「ナルト……」

ナルトは何も言わない。
何も聞かない。
それがどれだけ難しいことか俺は知っている。
あんなにも騒がしく、あんなにも無鉄砲で甘えん坊だったナルトが、今こうして俺の寂しさに添ってくれていることに純粋な驚きと感動がある。

「ナルト、立派になったな」

「……イルカ先生のおかげだってばよ。俺だけじゃない。サスケも、サクラちゃんも、木の葉丸も。先生が育てた奴はみんな立派になったってばよ。みんなが幸せなのも、世界が平和なのも、全部、全部イルカ先生のおかげなんだ」

「えっ!? ぷっ、あはははっ」

あまりの言いように、吹きだしてしまった。

「先生笑うなんて酷いってばよ!」 

「すまんすまん。でも、みんなが幸せで世界が平和なのは、ナルト。お前が頑張ったからだよ」

「そりゃ俺も頑張ったけど、カカシ先生もサスケもサクラちゃんも、じっちゃんも綱手様も、木の葉の忍は、みんなみんな頑張った。それでもってよ、俺やみんなが頑張れたのは、イルカ先生が俺たちのこと、支えてくれたからだってばよ」

過分な褒め言葉だと思う。
だけどナルトが心底そう思ってくれているのが分かるから。

「ありがとな、ナルト」

金色髪をくしゃりと撫でると、愛し子は朗らかに笑った。

「先生、飯まだだろ? 一緒に一楽行くってばよ!」
「いや。俺はいいから家に帰ってやれ。最近忙しくて碌に帰れていないんだろう?」

ナルトが照れくさそうに額を掻いている。

「実は、ヒナタもボルトもヒマワリも、一楽でイルカ先生のこと、待ってるってばよ」
「そうだったのか!?」
「サクラちゃんもサラダも。サスケだって帰ってきてるんだ! あとシカマルんとこ、チョウジんとこ、サイんとこも。他にも先生に会いたい奴らがみんなみんな集まって、店に入りきらないからテントをいくつも立ててるってばよ」
「なに!! そんなことになってるのか!?」
「うん。イルカ先生お疲れ様サプライズパーティーをするんだって、サクラちゃんとイノが中心になって皆で色々と頑張ったんだってばよ」

あー……。
あああああぁ…………………。

「イルカせんせぇ! ところでサプライズパーティって何だ??」

あ―……。
あぁああああああ…………。

退職の感傷は全て飛んで行って。
目の前の子どもへの愛しさで心が一杯になる。

「サプライズってのはな、驚かすって意味だ。サクラたちは俺にパーティーのことを内緒にしておきたかったと思うぞ」

「えっ!? やばいってばよ。俺イルカ先生にしゃべっちゃったってばよぉっ!」

幻術かける? とか 記憶消す? とか物騒なことをいいはじめたナルトを置いて、俺は一楽を目指し歩きはじめる。
教え子達と食べる今夜のラーメンは、きっと幸せの味がするに違いない。



つづく


ろぱんさんからのリクエスト内容は「イルカ先生がアカデミーを退職するはなし」でした。後篇は、生徒たちと楽しい時間を過ごし深夜に帰宅したイルカさんを、カカシさんが待っていて。
当然あっはんうっふんタイムがはじまっちゃうんですねー!!!!
久々のがっつりR-18を書こうと思います。
後篇も読みにきてくださったら嬉しいです!!

ろぱんさんへ
ほったらかしで、ごめんやでwwww  

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