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   嘘つきは恋のはじまり

*お話のタイトルは早瀬はやおさんに、お話の中に出てくるオリジナルの術の名前は如月ゆう本゜さんに決めていただきました。ありがとうございました。

たわわに実る艶やかな葡萄を目の前に、あれはスッパイから俺は食べないぞ、と強がる臆病で繊細な狐のように、きっとこの人は本当に欲しいものには手を伸ばせない。

「ね、テンゾウ。お前さっきから気の毒そうに俺をみたり、急にニヤニヤしだしたり、一体なんなのよ」

居酒屋の喧騒の中、カカシがグラスの中の赤い液体をうんざりとした様子で飲み干した。

「あーっ先輩、それ、ワインですよ!? ビールみたいな雑な飲みかた、やめてくださいよ」
「胃に収めりゃ一緒でしょうよ。それよりお前、質問に答えてない」

やさぐれた声。
不機嫌を隠そうともしない様子でカカシがテンゾウに視線を当てる。

「先輩の話を聞いていたらですね、先輩はまるでイソップの狐みたいに素直じゃないなと思ったんです」
「で、狐面を付けていた頃の俺を思い出して可笑しくなっちゃったってワケ?」

テンゾウは肩を軽くすくめることでカカシの予想を肯定した。

「で、なんでしたっけ。例のアカデミーの若い教師に懸想されて困ってるんですよね」
「そうそうイルカ先生ね。まだ24歳。とにかく性格が良くて、容姿もそれなりに整ってる。笑うとすごく可愛いよ。仕事も出来るし意欲もある前途有望な若者なわけよ。すごくいい子なだけに、どうやって諦めてもらうか悩むよ。脈なしだってことは、伝えているはずなんだけど、彼の中で俺への気持ちが日に日に大きくなってきてるのが分かっちゃうの」

カカシは心底困った表情でため息をついた。

「先輩って男ダメでしたっけ?」
「いやダメじゃないよ」
「じゃぁ、付き合っちゃえばいいんですよ。他人に興味のもてない先輩がそれだけ褒めるってことは、実は相当気に入っているんでしょう?」

カカシは拳を握り、テンゾウの脳天を狙う。
軽く、軽く力を抜いて。と自らに言い聞かせるが、つい力加減を誤ってしまった。

「イテッ、先輩っ本当に痛いですよ!?」
「お前がバカなことを言うからでしょ。イルカ先生とは一回り以上歳が離れてんのよ? いくらしっかりしてるからって、俺から言わせりゃ彼はまだ子どもで恋愛対象にはなり得ないよ。それに先生にしたって、憧れと恋心を混同してるところがある。多分俺に惚れるまではノンケだったろうし、俺がソッチの世界に引き込むわけにはいかないでしょうよ。分別ある大人はね、どうこう出来る相手だからといって簡単に手を出したりしないの。オマエもいい歳なんだからそれくらい分かりなさい」

「へーい」と気のない返事しながらも、テンゾウはカカシの様子をチラリと盗み見た。
イルカの話をするときのカカシは、いつもよりほんの少し早口で声音が優しい。いつも眠たそうな目はさらに細められ、黒目がキラキラ輝いている。ほんの少し寄せられる眉と緩やかな弧を描く薄い唇が切なげで、口元のほくろの破壊力と相まって相当な色気だ。

――イルカ先生も気の毒に。会うたびにこんな姿を見せられて”脈なしだ”って匂わされても、そりゃぁ諦めきれないよなぁ。

テンゾウとカカシはいつだってどうでもいい話をして、くだらない表情のまま時間を潰す間柄だったのに、最近は何を話していてもイルカの話になり、カカシはそれはそれは悩ましげに溜息をついたり、嬉しそうに笑ったり、実に豊かな表情を見せるようになった。

猫背気味だったカカシの背はしゃんと伸び、それを指摘したテンゾウに「イルカ先生に食事中は背筋を伸ばしたほうがいいって言われたの」と、誇らしげに微笑む。
近頃、カカシの日常にあちらこちらにイルカの影響が見受けられる。
ここ最近使っているこの居酒屋だって、イルカに連れてきてもらったそうで。

――先輩だって、こんなにも恋してるのになぁ。

カカシは、人に対して臆病だ。
彼の不幸な生い立ちと、彼の過酷な生業がそうさせた。
欲しい人がいて、手を伸ばしさえすれば手に入ると確信していても、手に入れた先の幸せを信じることができないから、手を伸ばせない。
テンゾウはカカシの側で、彼が幾つかの恋を始まる前から手放すのを見てきた。
相手は女だったり男だったりしたけれど、カカシは己の殻を決して破ろうとはしなかった。

だけど、今回はどうだろう。
ここまで他人に執着をみせるカカシをはじめてみた。
ひょっとしたら、何かが変わるかもしれない。

「先輩には幸せになって欲しいと思ってますよ」
「テンゾ、なによ急に。俺はもう充分幸せだよ」

カカシは微笑む。
それは望むことを諦めた静かな微笑みで、自らの幸せにひどく無頓着なカカシのことが、テンゾウは哀しかった。


*


放課後、帰宅準備を終え職員室を出たカカシは長い廊下の向こうにイルカを見つけた。
向こうもカカシを見つけたようで、全力で走ってくる。
イルカの全身から”好き”がダダ漏れだ。
犬っころみたい。とカカシは失礼な感想を持ちながら、己の側で立ち止まり笑顔を見せるイルカに呆れ声をかけた。

「アカデミーの先生が廊下を走っちゃダメでしょ?」
「あっ! すみません。カカシ先生を見つけたもので、つい」

人差し指で鼻傷をかくイルカが、とんでもなく可愛くて自然と微笑んでしまう。

「で、俺に何の用?」
「お時間のあるときで構わないので、体術の練習に付き合っていただけませんか? 実は少し苦手で」

弱点を伝えるのが照れくさいのか、先生の頬が薄紅色に染まっている。
距離をとろう、と決めた相手なのに力になってやりたいと思ってしまう。
「今からならいーよ」と、気付けばそう答えていた自分にカカシは驚いていた。



運動場に出ると、西の空の山際に大きな太陽が浮かんでいた。

「うわぁ。カカシ先生見てください。あの夕日。学食の梅干しのような色ですね」

無邪気にそんなことを言われててもどう返せばよいのやら。
カカシはイルカの顔と夕日を交互に見比べながら黙り込んでしまった。

イルカの感性はしなやかで瑞々しく独特だ。
夕日を梅干しのようだと言う彼が見る世界は、きっと己の見る世界よりも随分と面白く豊かで輝いているに違いない。
イルカの世界を生きてみたい。
心に浮かび上がった欲求に、カカシは酷く動揺してしまう。
誰かとの未来を望んだことなど、初めてだった。
いけない。こんな感情は早く殺してしまわなければ。

「カカシ先生、まずはお手合わせお願いします」

キリリとした表情で、イルカが頭を下げた。
イルカの纏う闘志に中てられ、カカシの心は冷静さを取り戻す。

悪くない。
忍の眼で、カカシはイルカを見据えた。
ただ真っ直ぐに立っているように見えて、重心を爪先に置いている。
イルカの、脚絆に包まれた常よりも盛り上がりを見せている筋肉が、どの方向にでもすぐに跳べることを示していた。

「いくよ」

声ひとつ。
カカシは嫌味なほどに長いその足をイルカの脳天に振り下ろす。
ガンッ。
骨と骨がマトモにぶつかり合う衝撃がカカシの足首を襲うがカカシは眉ひとつ動かさない。一方、片肘で蹴りを受け止めたイルカは痛みに顔を歪めている。

「何やってるの」

空中で腰を捻り、生じた隙を目がけて新たな蹴りを繰り出すカカシ。
ビュンと空を切る音がして、爪先がイルカのあばらの間にめりこんだ。

「ぐはっ!」
「最初の蹴りは、避けるか、筋肉が充分付いている部分で受け止めなさい。痛みで隙を見せたら、さっきみたいに次の攻撃をマトモに食らうよ?」

衝撃と苦痛によろめきながらもイルカはカカシの足を掴んでいた。
そして離さない。

結果、片足で着地せざるを得なかったカカシに、イルカが拳を突き出す。
それを合図に苛烈な打ち合いが始まった。
突き、蹴り、関節技、投げ技。
あらゆる攻撃を仕掛けてくるイルカに、カカシは丁寧に対応してやる。
防御の甘いところは、拳をあるいは蹴りを打ち込み痛みでもって身体に教え込んでやった。
我武者羅なようでいてイルカは冷静さを失っていない。痛みに我を失うこともない。
これは忍にとって、最も大切な要素だ。
イルカは強い。
そして、もっと強くなる。

そう確信したカカシに容赦はなかった。
受け止めるだけでなく、自ら攻撃をしかけていく。
まだ若く、アカデミーの教師であるイルカには圧倒的に実践の経験が少ない。
イルカが戦場に立つことを望むわけではないけれど、もしものときの為に定石どおりにいかない戦いを経験させてやりたかった。
何度でも拳を交え何があっても生き残れるように、してやりたかった。

カカシの体内に大量のチャクラを感じたイルカが、一瞬動きを止めた。
授業で術を見せるときとは違う圧倒的な量。
おそらくはイルカの限界の数倍もの量が、瞬く間に練り上がっていく。
イルカは後方に大きく飛び、カカシとの距離を確保しながらカカシの言葉を思い返していた。

『戦忍の間は、しょっちゅうチャクラ切れで入院していたんです』

イルカの胸がきゅぅと痛む。

――これだけの量のチャクラを有しているのにチャクラ切れだって? 一体どれだけ苛烈な世界を生き抜いてきたんだ。

「ボーッとしてたら大ケガしますよ、先生」

耳を打つ厳しい叱責にイルカは自らの置かれた状況に気付いた。

「ちょっ! カカシ先生。体術の手合せをお願いしたんですけどっ」
「そうでしたかねぇ。で、イルカ先生は敵忍にも同じコト言えちゃうの?」
「!」

もう随分と体力を削られているイルカは、それでも必死にチャクラを練り始めた。
術の精度とパワーでカカシに勝てるわけがない。唯一勝算があるとすれば、先制攻撃だ。
素早く印を結んだイルカが叫んだ。

「水龍縄縛の術!!!」

地面を突き破って吹きだした水が瞬く間に龍を形どり、カカシへと襲い掛かる。
水龍の攻撃を今までに避けきれた忍はいなかった。
イルカは何度も危機を切り抜けてきたこの術で、突破口を切り開けると信じている。
カカシが隙を見せた次の攻撃を仕掛けようと、水龍の後ろをイルカが駆ける。
龍の咢がカカシを噛み砕こうとした瞬間。
眩いばかりの雷光がイルカの眼を焼き、真白の世界にカカシの声が響いた。

「雷切っ!」

紫電を纏ったカカシの右手が龍の腹を裂き、突き進む。
龍はのたうちながらその姿を手放し、水へと還ってゆく。
帯電した大量の水飛沫は拳圧で飛ばされ、イルカへと降り注いだ。

「うっ、ぐぁあ!」

悲鳴とともにイルカは地面に倒れ伏し、感電の痛みに顔を歪め全身を震わせた。

「あっ.......ぁあっ……ふっ」

薄く開いた唇から洩れる吐息。
苦しげに寄せられた眉の下には、生理的な痛みからか涙を湛えた目が細められていて。
まるで閨を思い起こさせるイルカの色香に、カカシの心臓がドクリと跳ねた。
熱い血液が集まる先は……。

―― なに!? 

ありえない反応を見せた雄の部分。
イルカの苦悶の表情に、唇から漏れ出た呻き声に、欲情したという事実をカカシの理性が拒絶している。
それなのに心とは裏腹に身体は瞬く間に熱をあげていく。
カカシの雄がイルカを求めて勃ちあがっていく。

―― ダメだ!

カカシは長い時間をかけ身体の反応を鉄の自制心で抑え込んだ。
イルカの様子を伺うと、水滴に宿った雷も今やその威力を失いつつあり当然イルカの息も随分と整ってきている。
掌に風の玉を作り出したカカシはイルカに向けてそれを放ち、帯電した水しぶきを全て吹き飛ばしてやった。

「ありがとうございます。カカシ先生。まさか雷切を見られるとは思いませんでした」
「雷切じゃないと対応しきれなかったんですよ。なかなか良い術でしたよ、イルカ先生」

立ちあがったイルカはいつもの調子を取り戻し、カカシからの賞賛を受け誇らしげに笑った。

こんなに美しく笑う人をカカシは他に知らなかった。
急にイルカがとんでもなく稀有な存在に思えてきて、彼ほどの人物にはこの先二度と出会うことはないと確信に近い思いが胸に生じる。
と、同時に彼と共に在りたいという強烈な欲求が湧き上がった。
彼の気持ちを受け入れ、彼を愛したい。
この綺麗な笑顔をいつだって見ていたい。独り占めしたい。己の全てをこの人に曝け出し、受け止めてもらいたい。この人をまるごと手に入れたい。
随分と前から心の奥底に封印し続けた思いは、苛烈なまでの恋心だったと自覚した。

―― ダメだ。イルカ先生の幸せを潰すつもりか!?

血濡れの半生を送ってきた。
いくら穏やかな微笑みを浮かべ紳士然と振る舞っていても、己の行いからは逃れることは出来ない。多くの命を奪ってきた半生を無かったことには出来ない。
この汚れた手で清らかなイルカに触れてしまえば、イルカはきっと汚れてしまう。イルカがイルカでなくなってしまう。光の中で生きるからこそ、イルカはこんなにも輝いている。イルカは。うみのイルカは、闇に染まった男が手を伸ばして良い存在ではない。
愛しているからこそ、手放さなければ。
じくじくと痛み出した胸にカカシはそっと拳を当てた。

―― この痛みは一生俺に付き纏うだろう。それでも、何もない心を抱えて生きていくより、よっぽどマシだ。

イルカは何かを達観したような穏やかな顔でカカシに話しかけてくる。

「流石ですカカシ先生。やっぱり先生はアカデミーの誰よりも強い。それなのにとても気さくで俺なんかにも優しくしてくれる」

ああ、これは良くない。
イルカが尊敬と思慕に目を輝やかせながら、カカシを讃える。
その言葉はいつまでも尽きることがない。
カカシの心が石のように重くなる。
カカシは、イルカからの告白を恐れていた。
思いを告げられてしまえば、今までのような優しい時間をイルカと過ごせなくなってしまう。


―― 離れるのはイヤだ。イルカ先生お願い、まだ言わないで

「こんなに丁寧に相手をしてくださるなんて、感激です。生徒にだって勿論とても親身になって接していますよね。あの、びっくりすると思うんですけど……」


この賛辞の先にあるのは、愛の告白だろう。
どう考えても、受け入れることは出来ない。
血に濡れた半生を送ってきた人間が、誰かを幸せにすることなんてできない。
イルカを大切に思うなら、手を引かなければ。

イルカが未練を残さないように、手厳しく断らなければいけない。
彼と過ごした優しい時間も、もう手放さなければいけない。
イルカの人生から、完全に出て行かなければいけないのだ。

「カカシ先生、実は俺、先生のことが好きなんです。尊敬とかそういう好きだけじゃなくって、恋愛感情として好きなんです」

来た。ついにこの時がきてしまった。
イルカの真っ直ぐな瞳が、カカシを射抜く。嘘偽りなどない、真摯な瞳だった。
告げられた真摯な思いは、カカシの心を酷く痛めつける。

―― イルカ先生の気持ちはありがたいけど、俺は先生をそういう対象として見たことはないし、これからもあり得ないよ

考え抜いた言葉を、いま唇に乗せなければいけない。
覚悟を。
彼を手放す覚悟を、早く固めければ。

カカシの手の平がじわりと湿り気を帯びてくる。
イルカを手放す。それがこんなにも苦痛を伴う行為だとは思ってもみなかった。
言わなければ、言わなければ。
焦りは震えとなって、カカシの全身を覆っていく。

「イルカ先生、俺は……」

喉の奥から絞り出した声を遮って、イルカが大声を張り上げた。

「でも、俺もうカカシ先生を諦めました!」

明るい声、屈託のない笑顔で、そう続けたイルカ。
カカシは己の耳を疑った。何を言われたのか、思考がついていかない。

「カカシ先生が俺をそういった意味で相手にしていないことは前から気付いていました。それに俺もまだ若いとはいってもボチボチ真剣に将来を考えないといけない歳ですから、いつまでも脈のない恋にしがみついているワケにはいかないんです。
さっき手合せしていただいて、なんか色々ふっきれちゃって。
俺、彼女作りますね。カカシ先生みたいに、何でも出来て、優しくて、包容力があって、人の痛みに敏感で、思慮深い年上の人」

カカシの全身から力が抜けていく。
胸に生じた強烈な寂しさを否定したくて、カカシは無理やり笑顔を作った。

「りょーかい」
「本当に、今までありがとうございました」

イルカは律儀にお辞儀をした後、まっすぐにカカシを見つめた。
切なさと、恋慕と、決意の入り混じった複雑なイルカの表情にカカシの胸が締め上げられ、痛みに軋む。

―― あぁ。これで本当に終りなんだ

イルカは立ち去り、これでよかったのだ、とカカシは自らに言い聞かせるけれど、<もしも>のことを考えてしまう。
もしも、イルカに好きだと伝えていたら?
もしも、心の赴くままにイルカをこの腕の中に閉じ込めていたら? 小さくなる背に追いすがり、愛していると抱きしめることが出来たら?
考えれば考えるだけ辛くなるだけなのに、カカシは思考を止めることができなかった。

自ら望んだ結果に落ち着いたのに、喜びや安堵はこれっぽっちもない。
未練がカカシを嬲り尽くす。

恋愛感情として好きなんです
でももう諦めました
俺、彼女作りますね

イルカの言葉が頭にこびりつき、離れない。

―― もう、終わったんだ。これで、よかったんだ。帰って、日常を演じないと。

まるで他人の身体ように現実味を失った足をカカシは意志の力で動かした。
一歩一歩がまるで鉛のように重く、ズタボロの心を押し潰すようだ。
それでもカカシは歩き続けた。



校門を出たところで、塀に背中を預けて立つテンゾウに声を掛けられた。

「いいんですか? 本当に」

気遣いに満ちた声音すら、今は辛い。

「なによ。オマエ、どこまで知ってるのさ」
「先輩をここで待っていたら、イルカ先生が出てきたんですよ。とっても哀しそうな顔をしてたので、あーこれ先輩絡みだって思って、何があったのか聞いちゃったんですよね」
「ほぅ」
「で、本当に先輩はそれでいいんですか?」
「いいに決まってるじゃないの。当たり前のこと聞かないでよ」

―― 先生が幸せになるんなら、なんの問題もない。俺の気持ちなんかどうだっていい。

「悪いけど、俺もう帰るね」

ポケットに手をつっこみ歩き出したカカシの背に向けて、テンゾウが口を開いた。

「センパーイ。イルカ先生、今夜いつもの居酒屋で合コンするんですよ〜。今夜、彼女が出来ちゃうかもしれませんよ〜!!」


*

何故ここに来てしまったのか、とカカシは思う。
校門を出て、そのまま帰宅するべきだった。
そうしていれば、女に囲まれて楽しそうにはしゃぐイルカを見ずにすんだのに。
イルカは、男三名、女三名の飲み会の真っ最中だった。
男の参加者は、受付で良く見かけるイルカの同僚達。
女に見覚えはなかったが、それぞれに美しい顔立ちをしている。
年のころはイルカよりも4,5歳年上といったところか。

数時間前に自分のことを好きだといったイルカが、女に抱きつかれ鼻の下を伸ばしている。

――なんなの、信じられない

カカシの胸の奥に奇妙な苛立ちが芽生え、イルカが女に笑いかけるたびに苛立ちは醜く育っていく。
気分が悪い。
イルカに媚を売る女も、鼻の下を伸ばし苦笑いを浮かべているイルカも許せない。
イルカを遠ざけたのは自分自身で、イルカが誰と恋仲になろうと咎める権利がないことは理解しているが、イルカの変わり身の早さが許せなかった。
これ以上ここに居れば、何をしてしまうか分からない。
そう判断したカカシはテーブルに多めの札を置き、立ちあがった。

「おい、イルカ。あれ、カカシ上忍じゃないの? お前仲良かっただろ? 飲みに誘っちゃえよ」
「写輪眼のカカシさんと一緒に呑んでみたいわ! イルカ先生お願い!!」


―― 冗談じゃない!

癇に障る彼等の存在を無視するカカシの耳に、イルカの声が届く。

「カカシ先生! もしよかったら一緒に呑みませんか?」

ブワリ。と腹の底から怒りが立ちのぼった。

―― 散々俺に粉かけといて、勝手に終わらせて、新しい女に夢中になって……!

断ろうと振り向いたところで、女の肩を抱くイルカが視界に入った。

「ナニソレ」

我知れず冷えた声が出た。
鋭い眼光に、若者たちが怯む。

苛立ちを隠そうともせず、カカシは足早に店を去った。
引き戸がピシャリと締められる音と共に、今まで呆然としていたイルカが、弾かれたように走りだす。

「カカシ先生! カカシ先生!!」

切羽詰ったイルカの声を無視して、カカシは更に足を早める。
今イルカと顔を合わせれば、きっと色々なことに我慢が効かない。
好きだと言ったのは嘘だったのか、あの女と付き合うつもりなのか、と問い詰めてしまうだろう。
一度暴走してしまえば、何があっても止まれない。
イルカが嫌だと泣き叫んでも、イルカの愛が己になくても、金や権力、忍びとしての能力、持てる力の全てを使ってイルカをこの腕に閉じ込める。
きっと優しくなんて愛せない。
イルカの心変わりを責め、嘆いて、詰って、捨てられた女のように愛を乞い、嫉妬に狂った男のようにその身体を抱き潰す日々を送るのだ。

なんて醜く恐ろしい。

カカシは己を激しく嫌悪し、イルカへの未練を振り切るように足を速めた。

「待ってください!」

背後から聞こえていたはずの声が、正面から聞こえる。
一陣の風とともに、目の前にイルカが現れた。

「なんでっ、俺から逃げるんですか! 何か気に障ることでもしましたか!?」

闘いでも挑むような勢いで、だけどその瞳は不安に揺れて。
この問いになんて答えればいい?
感情の決壊はすぐソコまできているのに。
箍が外れてしまえば、イルカにとって不幸にしかならないのに。
イルカ、どうして追いかけてきた? 

ああ、優しさと愚かさはひどく似ている。
どうか、あと数分でいい。俺の理性が壊れませんように。

任務のように。
全ての感情を殺して。
取るべき行動を。

「イルカ先生は何も悪くないよ。早く戻ってあげなよ。彼女のところに」

さぁ、悪魔から逃げるんだ。
これが最後のチャンスだよ、イルカ

「戻りません」

イルカ!!!

抑え切れない殺気が全身から溢れ出た。
イルカの肌が恐怖に泡立っているのが見える。

ダメだ、ダメだ。
この子を逃がしてあげないと。
砕け散った良心を身体中から掻き集め、壊れた理性に貼り付ける。
獲物を狙う獣の眼は隠しきれないけど、言葉ならまだ取り繕える。

「可愛い子だったじゃない。あの子と幸せになりなよ」
「嫌です。だってあの人テンゾウさんですよ? ふられた俺を慰めるために飲み会を企画して、女に化けて場を盛り上げてくれたんです」
「な……に?」

カカシの身体で暴れまわっていたドス黒い何かが、その動きを止めた。
縋るようにも挑むようにも見える表情でイルカがカカシを見つめている。
イルカはやがて意を決したように、血の気が失せた唇を開いた。

「カカシ先生がそんなに怖い顔をしているのは、嫉妬してくれたからだと自惚れてもいいですか?」

イルカの強い視線に曝されて、カカシの心臓が動きを早めていく。

「イルカ先生は、俺のこと諦めるって言いました。彼女を作るって言いました」

頭脳を通さずに出てしまった声はとてもとても小さかったけれど、奇跡的にイルカに届いた。

「それは貴方に迷惑をかけたくなかったからです。カカシ先生にとって俺は恋愛対象外だったでしょう? 何時だって遠回しに脈がないことを伝えてきた。だけど俺はどうしても諦められなかったし諦めるつもりもなかった。一生片恋で構わないんです。貴方しか愛せないんです。でも俺の想いがカカシさんの負担になるのは嫌なんです」
「だから、俺をあきらめたって嘘をついたの?」
「はい。カカシ先生に迷惑をかけたくありませんでした」
「そんなに俺のことを、想ってくれてるの……?」

その瞬間、カカシの中から禍々しい感情が全て吹き飛び、カカシはイルカに手を伸ばした。
そして、躊躇うことなく掻き抱く。

「好きですイルカ先生。俺はきっとあなたが思うよりもずっと汚れた人間だけど、どうかアナタを愛させて。俺の全部をアナタにあげるから、どうか一生アナタの側にいさせてください」

恥も外聞もなく叫んだカカシの身体を、イルカの優しい手が包み込んだ。



*


二人が心を通わせてからの日常は驚くほど穏やかで幸せに満ちたものだった。

一日の授業を終え、職員室で帰り支度をしていたイルカの元にカカシが来て、愛しさを隠そうともしない顔でイルカを見守っている。
彼の唇が緩やかな弧を描いていることは、口布の下を見なくても分かった。

「イルカ、今夜もスル?」

イルカにやっと聞き取れるくらいの掠れ声で、カカシは甘く囁いた。
完全に不意打ちを食らったイルカは「はっ、はいっ!?」と大声をあげ、直立不動の姿勢をとってしまう。
その突飛な行動は、部屋に残っていた教師達の視線を集めることになる。
イルカは羞恥に顔を赤に染め、この状況を切り抜けたいと切に願うのだが、どうにも頭が回らない。
助けを求めてカカシを見ると、つい先ほどまでの穏やかな雰囲気はどこへやら目を眇めて意地悪な様子。

「そんなに大きな声をだして、今夜誘ったのがそんなに嫌だった?」

静かな口調。大きくはない声。けれど、透き通った彼の美声はよく通る。

「カッ!? カカシさんっ!?」
「あぁ。毎日だと流石に身体の負担がキツイのかな? 手加減はしているつもりなんだけどイルカ先生は声もけっこう出ちゃうもんね。喉がやられると授業にも差障るよね」
「なっ、なにを言ってるんですっ」
「今夜はやめとく?」

カカシとイルカの色めいた会話に、周囲が聞き耳をたてているのが分かった。
二人が付き合い始めたことは当分の間秘密にしておこうと決めたのに、こんなことでは気付かれてしまう。
手に汗を握るイルカに、華やかな笑顔でカカシが話しかけてきた。

「いくら体術が上手くなりたいからって、毎日俺相手に修行って、イルカ先生も熱心だよね」
「……は、はあ」


周囲の緊張が一気に溶けた。
からかわれたのだ、と理解した瞬間、拍子抜けと安堵が一挙にイルカを襲った。
その後に怒りが。
イルカはキッと意地悪な恋人を睨み付けた。
視線を真っ直ぐに受け止めたカカシは、いつものように甘やかな微笑みを返すばかり。
そんなカカシの幸せそうな顔を見てしまうと、正当なはずの怒りは瞬く間にその威力を失ってしまう。

年上の恋人は、とんでもなく優秀で、とても優しくて情熱的で、心からの愛情をくれる。だけど、たまにものすごく意地悪だ。
掌に収められ、転がされているという自覚がある。
それでも、それが心地よいと感じるのは

「俺もたいがい惚れちまってるよなぁ...... 」

ポツリと零れた独り言に、カカシはそれはそれは嬉しそうに笑った。


おしまい


Y様からのリクエスト内容は、「シリアスで、カカイルの年の差が一回り以上。現役暗部を凌ぐ実力で、世捨て人みたいなカカシさんが、ピチピチイルカ先生に懸想されるうちに惹かれ、年甲斐もなくうろたえ、手を出してよいものか悩む」でした。
Y様リクエストありがとうございました。

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