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   雨の日に


緑濃き紫陽花の葉の上で。
空から落ちた雨粒達が次々と珠を結び、雲の合間を縫って差す陽がそこに小さな虹を閉じ込める。
やがて珠はツゥと零れ落ち、今や黒々と濡れそぼった土の表面に小さな丸い痕を残して儚く散った。

その様をイルカは茶寮の窓辺からぼんやりと眺めていた。

古い洋館を改築したこの茶寮は、里外れにある鬱蒼とした林の奥に密めやかに建っている。
その立地故か、それとも内向的な店主の性格故か、ここを訪れる客はめったにいない。
雨ともなれば、なおさらだ。

だからこそ茶寮に通じる小径の奥に人影を認めたとき、イルカは興味をそちらへ移した。
傘も差さず、糸のように細い雨に身を晒すその人は、泥跳ねに服が汚れるのも気にせず、淀みない足取りでこちらに歩いてくる。
その颯爽とした足運びとは対照的に、どこか情けなく丸められた背中にイルカは見覚えがあった。
私服に身を包み、しとどに濡れた銀の髪は勢いを失っていたが、それは確かに、写輪眼のカカシであった。
忍の世界に生きるものであればその名を知らぬものはいない彼に、憧憬の念を抱くものは多い。
イルカとて例外ではなかった。

しばらくして、真鍮製のドアベルの渋い音を響かせカカシが店に入ってきた。
イルカは緊張から拳をギュウと握りこむ。
声をかけようかとイルカが躊躇っている間に、カカシは店主とふたことみこと言葉を交わし、店を出てしまった。

イルカは細く息を吐く。
ほっとしたような、少し残念なような複雑な気分だ。

―――― はたけ上忍が俺のことを知るわけがないのに、ここで俺に話しかけられても迷惑なだけだよな ――――

彼が店の外に出たおかげで馬鹿なことをせずにすんだ、とイルカは胸をなで下ろした。
なんとも落ち着かない心を宥めようと珈琲を啜っていると、窓の外にカカシが現れた。

彼は、イルカの席と窓ひとつ隔てた場所に席をとった。
そこは長い軒に守られていて、雨に濡れる心配はない。
庭用の円卓は、木目麗しい樫で作られており些か重厚に過ぎたが、卓の上にさりげなく置かれた硝子の花瓶、その中で咲く白い花が、その硬い雰囲気を随分と和らげていた。

カカシは、店主から手渡されたであろう手拭で濡れた躰を拭きはじめた。
存外に優美なその仕草を間近で見ることになったイルカは、美しい男の美しい所作に強く惹きつけられる。

雨を拭い終えたカカシはポケットから本を取り出し、椅子にかけた。
ページを捲るカカシの指先は意外に細く、繊細だ。
この指先で千の術を生み出すとは信じ難く、イルカは驚きをもってカカシを見つめた。

更に驚くべきことは、本を読むカカシの表情の豊かさである。
ひとつページを捲っては形の良い眉をグッと顰める。
伏せられた瞳は痛みに彩られており、ときおり耐え切れぬというように静かに瞼が下ろされた。
またひとつページを捲っては、目元を優しく緩ませる。切なげで真摯なその眼差しにイルカの胸がジクジクと痛みだす。

イルカは、カカシが天賦の才に恵まれた忍である前に、己とそう歳の変わらぬ若者であることに今更ながら思い至った。すると、殺戮の世界に身に置くカカシの孤独と哀しみに、想いが向かう。


ああ、この人は。
あの本を通してどんな世界を見ているのだろう。

数多の戦に壊れかけた心。
それを保つ術を、偉大な先人が記した書の中に求めているのだろうか。

それとも、掛け替えのない友と互いを高め合い、果敢に困難に立ち向いゆく若者の冒険譚を、羨望と興奮に幾ばくかの嫉妬を混ぜ、読み進めているのだろうか?



カカシにこんな顔をさせる本の正体を暴きたいと思うのに、その切実な願いは楮紙 (こうぞしの書皮( ブックカバー)に遮られ叶わない。
イルカは無意識のうちに、窓の外へと手を伸ばしていた。
短く切り揃えられた爪がガラスに阻まれ、カツンと小さな音をたてる。

しまった、と思ったときには既に遅く、音に気付いたカカシと目があった。
しかし彼は、想いの詰まったイルカの視線を笑顔ひとつでさらりと躱し、本の世界へと戻ろうとしている。
それを察したイルカは咄嗟に叫んでいた。

「あのっ!」

不躾な態度に気分を害するでなく、カカシは首を少し傾げて本を置き、立ち上がって窓ガラスに手をかけた。

この人はこの窓を開けるつもりだ!
そう悟ったイルカの心臓が早鐘を打つ。

期待と緊張と。
何かが変わる予感。
そんなものに押しつぶされて「なんでもありません!」と叫んでしまった。


目を細めたカカシは口元に緩やかな笑みを浮かべ、再び椅子に腰を落ち着けた。

そのとき、カカシの指先が机上の小さな花瓶に当たった。
花瓶は倒れ、コンと小さな音をたてる。
白い花は投げ出され、水は零れて卓上を走った。

「あっ、本が!」

イルカの小さな叫びに、わかっているとばかりに頷いて、カカシは花瓶に手を伸ばした。
倒れたそれを元に戻し、花を挿してやる。
それからささやかな術を用い、小さく儚きものを慈しむような穏やかな顔をして、花瓶を水で満たしてやったのだ。

イルカの胸は高鳴るばかりだった。
なんて、優しく細やかな心配りが出来る人なんだろう。
この人のことをもっと知りたい。
忍びとしてのこの人ではなく、ひとりの人間としての、この人を。

この人は、何を好み、何を嫌うのだろう。
この人が、あんなに切ない顔をして読む本は一体なに?

カカシが手拭で零れた水を拭いた。
その後、濡れてしまった本を手に持つ。

イルカは息を詰めてカカシの挙動を見つめている。

カカシの手が書皮にかけられた。
イルカは切なさに痛む胸を拳で押さえつけた。

ーーーもうすぐだ。もうすぐ知ることが出来るーーー

ついに、白い指先によって書皮は取り払われ、表紙が露わになった。

本の題目がイルカの目に飛び込んでくる。


「えっ! イチャパラ!?」



(2016.06.23 )


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