Agnus Dei
「ねぇ、アスマ。ちょっと聞いてくれる? 最近ミライの帰りが遅いのよ。週に4回は門限を破ってるわ」
「そうか。困った奴だなアイツも。お前も心配だろ? すまねぇな。思春期の大事な時期に子育てに関わってやれなくて」
違った。こうじゃない。
アスマはこんなに優しい言葉は使わなかった。もっとぶっきらぼうで、投げやりで。
でもいつだって、私の話に正面から向き合ってくれたわ。
それに、そうね。
私だって、こんなに穏やかに話しかけなかったはずね。
もっと、可愛げがなかったわね。
じゃぁ、こうかしら。
「アスマ! もう信じられない! ミライったら昨夜も門限を破ったわ。今日もまだ帰ってこないし。任務、任務って言ってないで、貴方からも何か言ってやって!」
「んなもん、お前が幻術使ってビビらせりゃすむ話だろ? それに、俺たちだってミライくらいの年の頃には、門限なんて破るためにあるくらいに考えてたろうが?」
違う。
また、間違えた。
アスマは言葉は乱暴だったけど、話している内容は乱暴じゃなかったもの。
アスマなら、もっとミライのことを心配して、私の気持ちも汲んでくれて、だけどミライの自由も認めてやりたいと思うはず。
アスマ、貴方はこんなときどんな表情で何て言うのかしら。
……分らないわ。
アスマ、ごめんなさい。
私分らないのよ。
貴方を忘れたくないのに、こんなふうに時々貴方が分からなくなるの。
あなたの声も顔も話すことも、少しづつ少しづつ本当の貴方と、思い出の貴方と離れていくのよ。それが私はたまらなく恐ろしいの。
私は貴方の全部を覚えていたいのに。
いいところも悪いところも、喧嘩したことも、冷たい一面も、全部全部。
貴方の生きていた全てを、ちゃんと覚えていたいのに。
ねぇ、貴方が死んで、思い出の中の貴方まで別人になってしまったら、私はどうすればいいのかしら。
大好きよ、アスマ。
ねえアスマ。私、貴方が恋しいわ。
アスマ。
*
*
*
「うーん。アスマの思い出ねぇ〜 珍しく俺んちにきたと思ったら、難しいこと聞くねぇ」
沢山思い出はあったけど、『紅には絶対に言うな』と釘をさされたロクでもないものばかりで。カカシは苦笑しながら紅に椅子をすすめた。
「ええ。カカシが知っているアスマのこと、教えて欲しいのよ。できればうんと悪いことがいいわ」
「悪いこと、とはまた物騒だぁね。俺、死んだらアスマに怒られるじゃないの」
「と、いうことは知っているのね?」
「まぁねぇ。付き合いは長かったし沢山一緒に任務にも行ったし?」
「彼、浮気してた?」
「してた」
「やっぱり」
紅はクスクスと笑った。
アスマが生きていたころは彼が長期任務に出るたびに浮気を疑って、それは激しく嫉妬したものだった。
でも今となっては、全てのことが掛け替えのない事実。大切にしたい事実。
「浮気といっても未遂だけどねぇ」
「未遂? まさか」
「ほんとだよ。俺達が街にでりゃオンナが群がってくる。しかも自分に自信のある綺麗なオンナたちだ。俺らも当時は若くて色々と持て余していたから、据え膳くわぬが男の恥とばかりに、張り切っちゃうわけよ。
でもな、あいつはいつも最後の最後で逃げ出すんだよ。オンナがシャワーを浴びだすと、急にお前の顔が浮かぶんだって。で、瞬身で仲間の部屋に現われるってワケ。
『やべぇ、勃たなくなっちまった! 影分身を俺に変化させて抱いてやってくれ。恥かかせるわけにはいかねぇからな』ってな。それで、ついたアダ名が【インポ野郎】」
「ウソ!?」
目を真ん丸にして紅は驚いている。
「ホントだぁよ。お前が想像してた千人斬りのアスマなんてどこにもいないの。俺はね、お前は自分で思う以上にアスマに愛されていたと思うよ」
優しい優しい声でカカシがそういうから、紅は哀しくて、可笑しくて、少し泣いた。
「アスマったらそんな不名誉なあだ名で呼ばれてたのね。ねぇ、もっと聞かせてよ。アスマの話」
―――アスマ、すまんな。
お前、紅にだけは内緒にしてくれってあんなに言ってたのにな。
ま、死んじまったお前が悪い。
この世は生者のものなんだから、お前はあの世から臍噛んで見てろ。
そのかわりといっちゃなんだが、紅とミライは俺がお前のかわりに守ってやるさ―――
「いいけど。なぁ、紅。どうした?」
カカシの労わりに満ちた視線が、紅は嬉しかった。
「あの人が死んで随分たったわ。忘れたくないから思い出すのに、思い出すたびに少しづつ自分の都合の良いようにアスマを変えているような気がしてね。本当のアスマと、思い出の中のアスマが別人になってしまうのが怖くて」
「それは、ザックリ言うと死人も思い出も美化したくないってことかな?」
「ええそうね」
「なるほど。だからアスマの”悪いこと”を知りたかったのか」
「彼そのものを覚えていたいのよ。まじりっけなしの、ね。でもそれはとても難しいことだわ。カカシは、誰かに対してそんな風に思ったことはない?」
「もちろん、あるよ」
彼等は、泣いたり笑ったりしながら、長い間アスマについて話し合った。
「まぁ、なんだ。お前とこうしてアスマの話をするのも、いいもんだぁね」
「ええ。ありがとうカカシ。また来させてね」
紅はそういって、未来へと帰っていった。
*
*
*
なぁ、アスマ。
俺はお前がいなくて寂しいよ。
オビト、リン、先生、父さん。
俺は、哀しくて寂しいんだ。
決して忘れたくない大切な人。
死の場面やいくつかの出来事は強烈に記憶に焼き付いているのに、なんでもない日常のことは、どんな風に歩いて、どんなふうに食べて、どんなふうに眠ったか、なんてことは。
時を経るにつれ、まるで砂のように俺の両掌から零れ落ちていく。
大切に、大切にしているのに。少しづつ無くなって。俺のなかの大切な人たちが虚ろになっていく。
紅は今日、アスマのカケラを探しにきた。
他人の記憶の中のアスマのカケラを沢山あつめて、紅は記憶の中のアスマを本物のアスマに近づける。
そして何万回も思い出して、何万回でも修復して。何万回でも涙して。
きっとそれが故人を愛しつづけるということなんだ。
だけど、ごめんな。
オビト、リン、ミナト先生、父さん。
うちは一族は滅び、
リンのご両親にはとてもじゃないけど会えない。
クシナさんは先生と一緒に死んでしまったし。
そして、父さん。
父さんのカケラを知るのは俺しかいないのに。ごめんね、父さん。ごめん。
俺の中のカケラだけをどれだけ大事にしても。
大切な人が歪んでいくのを止められやしない。
生きているときも、死んでしまった今も、俺は大切な人を守れない。
ごめん。
ごめんね。
ごめんなさい。
どうか俺を赦して。
(2016.08)