Domine Jesu
それは、ある夏の日のこと。
雲ひとつ浮かべていない空は、まさしく真っ青で、何の憂いもなくあっけらかんと其処にあった。
チチチと囀りながら小鳥が数羽、その空に遊んでいる。
少し視線を下に移すと、サルスベリが緑の葉の中に燃えるような花を沢山咲かせていて。
あぁ、綺麗だなって俺は思ったんだ。
こんな綺麗な日だからこそ、お前は今日のこの日を新たな旅立ちに選んだんだなって。
火葬場から、ちっぽけな箱になって出てきたお前は、お前の大好きなカミさんの胸に抱かれて。
それはそれは大切に抱かれているから、俺はお前がどんなにカミさんに愛されているか、改めて思い知らされたよ。
よかったな。チアキ。
お前はいろんな人に愛されていたんだ。
もちろん俺もお前が大好きだったよ。まっすぐで繊細で優しいお前が大好きだった。
「イルカおるか?」なんてくだらないダジャレで俺を探すお前が大好きだった。
愛していた。尊敬していたんだ。心から。
俺は腕に抱いた赤子に話しかけた。
「お前の父さんは沢山の人を愛し、沢山の人に愛されている素晴らしい人なんだぞ」って。
生まれたばかりの赤子は、不機嫌そうに身を捩っていて今にも泣き出しそうだ。
「ごめんな、母ちゃんじゃなくて。でも母ちゃんは今、お前の父ちゃんを抱いてるから俺で我慢してくれよ。な?」
憐れな赤子を胸に抱きしめると、何を感じたのか大人しくなって。
まだよくは見えていないはずの両目で母親の背をじっと見つめて、その小さな手を必死に伸ばすから、俺はたまらなくなって少し泣いた。
ごめんな。チアキ。
お前の旅立ちの日に泣いたりなんかして。
でも。やっぱり俺はお前がいなくなってとても悲しいんだ。寂しいんだ。
こればっかりはどうしようもないから、許してくれよ。
すすり泣く声に振り返ると、俺の後ろには喪服を着た人々が続いていて、俺達はまるで地を這う蟻の行列だった。
墓地に開けられた穴にむかって俺達は行進する。
青く綺麗な空の下で。
チアキの為に掘られた穴は当然新しくて、そこからは土の匂いがした。
おそらくは掘り返されたときに千切れたであろう草の青い匂いも交じっている。
ミミズやモグラが耕した土は、肥えて黒々としていた。
こんな言い方は変だと思うが、その穴は虚ろじゃなかったんだ。
チアキがこれから眠る場所は、優しさと赦しに満ちていた。
俺はそれを嬉しく思った。
チアキのカミさんは、その優しい穴にそうっとチアキを置いた。
そして白くたおやかな手で、土をチアキにかけていく。
丁寧に、丁寧に。
チアキを大地に還すために。
そのとき、赤子が突然泣き出した。
それは火のついたような激しさで、俺は驚き必死にあやしたが、どうしても泣き止ませることはできなかった。
母親が振り返り、土にまみれた手をぬぐいもせずに俺から赤子を抱き取る。
ぎゅう、と赤子を抱きしめる彼女の目から、涙が溢れて。
それは頬を伝い、首筋を伝い、喪服に吸い込まれて、喪服の黒を一層深くした。
「かわいそうに」
「こんなちいさい子がいるのに、どうして自殺なんて……」
「こうなる前に相談してくれていたらッ」
お前を悼むために集まったはずの者がお前を責める。
俺は彼らを怒鳴りつけたい気持ちを必死で抑えつけた。
だって、彼らは彼らなりにチアキを愛し、その死を悼んでいるのだから。
でも。
だけど。
とても悲しかった。
やるせなかった。
これも、チアキが生きていられなかった理由のひとつかもしれない。
赤子を抱いたチアキのカミさんに頼まれて、俺はチアキの上に土をかける。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
でも、小さくなってしまったチアキはすぐに土の中に埋もれてしまった。
俺は世話役から手渡された小さな墓石を、―それは本当に小さなもので俺の両手に収まるほどだった― 土の上に置いた。
それが全てだった。
必死に生きたチアキを送る儀式の、全てだった。
アイツはあんなに里に尽くしたのに、自死だというだけで慰霊碑に名は残せない。
だからというわけではないけれど、俺は俺の心の一番柔らかい部分にチアキを刻み込む。
一生消えないように、深く深く刻み込む。
参列者は思い思いに墓石に向けて哀惜を表し、そして立ち去った。
チアキのカミさんは、とうの昔に帰ってしまっている。
それは、赤子のためだった。
チアキの側にいたくても、赤子はこの炎天下に耐えられないから、長くはここにいられない。
家に戻って、赤子の汗をふいてやり、おむつを替え、乳をふくませてやらねばならない。
どんなに哀しくても、死者よりも生者を優先させなければいけない。
俺だって、明日にはこの哀しみをどこかへ追いやり無理やりに笑顔を作って教壇に立つのだろう。
きっと独りきりのときしか、泣きやしない。
冷たいようだが、それが生きるということだ。
きっとこれもチアキが生きていられなかった理由のひとつかもしれない。
誰かが悪いわけではなかったのだろう。
チアキは人よりも優しく、賢く、ひどく感性が優れていて、繊細だった。
俺自身が気づかない俺の傷に気づいて泣くような奴だった。
だから、世の中の哀しさに、冷たさに、非業さに、耐えられなかったんだろう。
「そうだよなぁ。チアキ」
誰もいなくなった墓地で俺は墓石を両掌で包み込み、めちゃくちゃに泣いた。
土の下のチアキに届けと、大声で叫ぶ。
「みんな、お前のことなんて何にもわかっちゃいないのに、どうしてお前を責めるんだろうなぁ。
お前がカミさんと生まれてきた子どもをどれほど愛していたか、俺は知ってるよ。
どんなに俺のことを大切に思ってくれていたかだって、知ってる。
生徒のことだって、同僚のことだって、里のことだって、お前は愛して愛して、みんなが幸せになれるようにって必死で心を砕いてた。
そんなお前が、逃げで自死するわけがないんだ。
誰かに相談していれば、だって?
そうしていれば解決する程度のことで、お前が死を選ぶはずがないじゃないか!
辛かったよな。
苦しかったよな。
それでも、何とか生きようって必死に足掻いたんだよな。
カミさんのために、子供の為に、死なずにすむために必死になって色々ためして。
だけど、ダメだった。
お前には、もう自死という選択肢しか残ってなかったんだろ?
必死に生きたお前が、考え抜いてたどり着いた最善の結末がコレだったんだよな。
だったら俺はお前の選択を祝福するよ。
がんばったな、よく生きたな。 お前は本当に立派だったよ」
泣いて
泣いて
泣いて
干からびて死ぬかと思うくらい泣いた。
でも俺は干からびないし、死にもしない。
どんなに哀しくたって、死にはしないんだ。
これも、チアキが生きていられなかった理由のひとつかもしれない。
いつの間にか太陽が沈みかけていて、あんなに青かった空は夕焼けに変わって。
チアキを失っても世界は美しかった。
これも、チアキが生きていられなかった理由なのだと思った。
西の空に金星が昇る頃、俺は涙を拭い踵を返した。
*
*
*
「え? カカシさん?」
振り向いた先に、その人は立っていた。
まるで枯れ木のように寂しげな風情で。
「いらっしゃったなら、声をかけてくださればよかったのに」
「イルカ先生の邪魔をしたくなかったんです。でも、ここに居ること自体が貴方に失礼なことだったのかも」
「驚きましたよ」
「すみません」
俺は少し笑ってみせた。
「大丈夫ですよ」
いきましょうか、とカカシさんを促して俺は先に歩きはじめる。
しばらくして背後の気配にむけて口を開いた。
「チアキとは、親しかったんですか?」
「いえ、特には。受付で会うくらいでしたから。だけど実直な仕事ぶりを好ましく思っていました。死んだときいて驚いて」
「そう……ですか」
俺は喜びを噛みしめる。
チアキ、すげえな。里の誉れであるカカシさんが、ちゃんとお前の良い所に気付いて、認めてくれていたんだぞ。
「それに父も……自死でしたから。なんとなく気になって」
だから葬儀に来たのだと。彼は申し訳なさそうに言った。
俺は立ち止まり、振り返ってカカシさんの目を真っ直ぐに見つめる。
「サクモさんのことは、お気の毒でした」
カカシさんの痛みを思い、俺は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。貴方は、優しいね。貴方がチアキを丸ごと認めたように、俺も、父さんを認めてあげれれば、よかった」
母を既に失っていたこの人は、父親の自死で天涯孤独の身となった。
―――とうさん、どうして僕を残して死んだの? ねえ、どうして!?――
きっとカカシさんの中では、こんなふうに小さな子どもが今も泣き叫んでいる。
「お父様を喪ったとき、貴方はまだ小さな子どもでした」
「ええ。自分の痛みにしか目を向けられない愚かな子どもでした」
「カカシさん、子どもなんて、みんなそうしたものです。貴方だけがそうだったわけじゃない」
「俺は、父を恋しいと思う同じ強さで、父を憎みました」
「あなたは子供で、お父さんを愛していたんだから、そう思うのは当然のことです」
「貴方がチアキをまるごと受け止めたように、父さんを受け止めることが出来たなら、父さんは喜んでくれるかな」
「ええ、きっと」
こんなに大きななりをして、里一番強くたって、彼は子どもだった。
父を求めて、愛を求めて泣き叫ぶ、誰かに守られるべき子どもだったのだ。
可哀想でたまらなくて、俺は彼を抱きしめた。
そして俺達は、喪った人を想い、身の内から哀しみを絞り出すように、静かに泣いた。
(2016.08 )