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   つつましい幸福  

台風一過。
雨上がりの庭に、イルカ先生が降り立った。

先生は庭の木々や池に住む鯉の無事を注意深く確認したあとに、庭の片隅に作られた菜園へと足を運ぶ。
台風に荒らされた畑を整えるのだと思う。

手伝います。と言えば今日は貴方の誕生日なんですから。と、わけのわからない理由で断られた。でも。と俺が言葉を継ごうとしたのを察したのか、先生は柔らかく微笑んで首を横にふる。
あの笑顔を見てしまうと、俺はもう先生に逆らえない。
だからこうして縁側に座り先生を見ている。

先生は支柱と共に倒れた茄子の前にしゃがみこみ、支柱と茄子を括っていた麻紐を丁寧に解き終えると、土の中にしっかりと支柱を埋め直した。
そして、黒い茎の折れてしまった部分にそうっと指をあてる。

節の浮いた浅黒く無骨な指。

その指で、昨夜先生はさんざ俺に縋り付き、俺の背に爪を立てて乱れた。
雨戸を叩く雨風の激しい音に負けないくらいの声で俺を強請り、俺が腰を振り立てると涙を流して「カカシさん、キモチいい」と悦んでくれた。

何故イルカ先生は俺を誘ったのだろう。
いつものように居酒屋で呑んでいただけなのに。

俺は酒を煽る先生の喉元や、酒精にほんのりと赤く染まった頬にいつだって欲情して。
友人のフリをして涼しい顔で先生の話を聞きながら、その実、卓の下では彼を求めてそそり立つ雄と、苛烈なまでの恋心を持て余していた。
それを決して彼に気取られてはいけない、と細心の注意を払っていたのに。

それなのに。
昨夜先生は、挑むような目つきで俺に言ったのだ。

「俺が欲しいですか? うちに来ますか?」と。

頭が真っ白になって。
気付けば先生の部屋で、先生を組み敷き、その躰に溺れていた。


「カカシさん、晩御飯食べていってくださいね」

イルカ先生に話しかけられて俺は我に返る。

先生は指先からチャクラを流し込み、折れた茎を癒していた。
茄子は黒と見紛うばかりに深い紫の実を幾つも成して。
葉っぱの上の雨粒が、雲間から差し込む日の光にキラリと光る。


その風景が心の中に大切にしまっている想い出と重なった。

10年と少し前。
暗部の仕事を終えた俺は、返り血を流すために里近くの川に寄り、そこで鼻に傷を持つ少年を見かけたのだ。

彼は当然俺に気付かず、大きな桶で水を掬っていた。
この近くには、随分前に打ち捨てられた小さな畑があったはずだ。
ひょっとしてあの畑にやる水を汲んでいるのか?
俺は少し驚いた。

もういちど彼をじっくりみると、一つ括りの黒髪は土埃にまみれ、額には無数の汗の玉が浮かび、シャツは濡れて背や胸に張り付いている。

「畑に水をやってるの?」

気付けば声を掛けていた。
振り返った彼の目が、俺を写す。

「そうだよ」

暗部装束の血濡れの俺を見ても彼は動じる様子もなく、水の張った桶を持って歩きはじめる。それが少し悔しくて。

「手伝ってあげる」

え? と声をあげる彼の横にストンと降り立った俺は、彼から桶をとりあげ、彼の腕をつかみ畑へと向かった。

驚いた。
そこは、もはや俺の知っている荒れた寂しい畑などではなく、かつてのように命と色に溢れた賑やかな畑だった。

生い茂る緑の葉の合間をヒラヒラと飛ぶ黄色い蝶。白い蝶。
黒々と肥え、柔らかそうな土から匂い立つ大地の香り。
濃い緑の合間から宝石のような赤を覘かせる幾つものトマト。
パンッと皮の張った艶やかな紫の大きな茄子
耳をくすぐる蜜蜂の羽音。
葉っぱを撫で鳴らしながら吹き抜ける爽やかな風。

「これ、全部アンタが?」
「うん。たまたま通りかかって見つけたから」
「どうして? もう何年も前から手入れされてなかっただろ?」
「だからだよ。だって可哀想じゃないか。せっかく誰かが作ったのに」
「でも、もうその誰かはいないかもしれない」
「だったら余計に大切にしなきゃ。その誰かのためにも」

彼の言葉が俺の心を貫く。

「……そうなのかな」
「きっとそうだよ。なぁ、水やり手伝ってくれるんだろ?」

俺は水遁の術で畑に雨を降らせた。
俺と彼の上にも降り注いだ雨は小さな虹を作り、それを見つけた俺たちは、ささやかな奇跡に心を打たれ、身を寄せ合って歓声をあげた。
それから一緒に雑草を抜いたり、枯れかけた葉を毟ったりしていると、俺の帰還の遅れを心配する式が飛んできて、俺は帰らなければいけなくなった。

畝にしゃがみこんだ少年が、丸々と太った茄子を茎から捩じり切り、俺に差し出す。

「旨いから持って帰れよ。焼きナスにして味噌汁に入れると最高だぞ」

ニッカリと笑う少年の後ろで、深い紫の実を幾つも成した茄子が葉っぱの上に乗せた水滴を陽光にキラリと光らせていた。

あの日はじめて俺は恋を知り、それからずっと彼の虜だ。


「サンマの塩焼きと、茄子の味噌汁を作りますよ。この茄子は焼き茄子にして味噌汁に入れます。最高に旨いですよ」
「あの……」
「なんです? カカシさん」

あの日の暗部が自分であったことを、きっとずっと前から彼は気付いていたのだ。それを俺に伝えたくて、彼は今、畑の中で茄子を手にしてこんなことを言っているに違いなかった。

「あの畑は父のものだったんです。父が俺に食べさせるための野菜をあそこで作ってくれてました。休みの日には一緒に畑の手入れをして、楽しかったな」

イルカ先生は立ち上がり、俺の前に来てくれた。
そしてしゃがみこんで、俺と視線の高さを合わせてくれる。

「そうでしたか」
「父が死んでからは辛くて畑に行けなくなりました。だけど貴方のおかげで俺は大切な場所を失わずに済みました」
「あなたのお役に立てて光栄ですよ」

イルカ先生は立ち上がり、俺の頭をそっと抱き込んでくれた。
イルカ先生のぬくもりが空っぽな俺を満たしてゆく。
あぁ、なんて幸せな。

「イルカ先生、俺はあの日からずっとアナタが好きでした。ようやくアナタを手に入れることが出来て嬉しいです」

イルカ先生がクスリと笑った。

「さて。ようやく手に入れることができたのは、どっちだったのでしょうか」

なんだ。
俺たちはあの日からずっと互いを想いあっていたのか。
なんだかとてもおかしくなって俺はクツクツと笑った。
そんな俺を見て、イルカ先生も笑い出す。

「お互いに長い片恋でしたね」

なんて先生が言うもんだから、感極まった俺はイルカ先生を力いっぱい抱きしめる。

「イルカ先生、俺アナタの作った茄子の味噌汁が食べたいです。今日だけじゃなくって、毎日。ねぇ、せんせ、一緒に暮らそう?」
「よろこんで」

イルカ先生は俺の腕から逃げ出して、俺の額に頬に鼻のあたまにキスをして、最後にこれ以上ないってくらい愛を込めて俺を抱きしめてくれた。

長くすれ違った俺たちだったけど。
これからはふたりで、つつましい幸福に生きるのだろう。
たとえば休みの日には一緒に畑の手入れをして。
手作りの料理に舌鼓を打って。

ずっと、ずっと、いつまでも。


父さん、おれはやっと幸せになれました。

【完】
茄子の花言葉はつつましい幸福。真実。
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